失敗は自らに原因があるけど、不幸は無慈悲に訪れる。
この無慈悲に無作為に襲ってくる不幸にどう対処するか、ここに人生の分かれ目があるように思えてならない。
この作品の主人公である松子の人生には幾多の不幸が襲い掛かってきた。そして見事なぐらいに、その不幸への対処は裏目に出る。不幸の訪れは運だが、その後の対処は松子の頑なさ、一途さが招いた不幸に思えてならない。
もっと他にも選択肢はあったはずだし、それを選ぶチャンスもあったと思う。だが松子はその機を逃した。同情すべき点はあったにせよ、それは松子自身の選択であり、決断であった。
その結果としての「嫌われ松子」であったとしても、松子自身はそれなりに納得しているだろう。何故なら彼女には他に選択肢がないと思い込んでいたからだ。
だが、私にはそこはかとなく違和感が残る。驚くほど、松子には同世代の友人が少ない。親元を離れて国立大学まで行っておきながら、悩みを相談できる友人がいなかったのか。
今どきのPCや携帯を通じての所謂友人しか作れない若者ではない。高度成長期を迎える前の日本の学生で、学生時代の友人が作れないなんてかなりの変人だと思う。
家族の呪縛、とりわけ父親の存在が松子の自由を狭めたように思う。でもそれだけではあるまい。松子自身が対人関係の構築が下手なまま育ってしまったように思えてならない。
私とてそれほど社交的な性質でもなく、むしろ依怙地な頑固者であり、友人もそう多くはない。また生来不器用で意地っ張りなので、窮地に遭って友人に救いを求めたことも少ない。
でも愚痴なら聴いてもらった。どうでもいいようなクダラナイ愚痴ではあったが、友人は笑顔で聴いてくれた。別に解決策をもらったわけでもなく、手を貸してくれた訳でもない。
でも話を聞いてくれる友達がいるだけで私は救われたと思う。この気持ちのゆとりが自らを追い詰めることから救ってくれた。友達がいることで、道を踏み外すことなく生きてこれたし、人生の岐路での選択肢がいくつもあることに気が付くゆとりをもたらせてくれた。
思い込みの激しさは、時として人を不幸に追いやる。松子にもう少し気持ちのゆとりがあったのなら、他にも選択肢はあったように思えてならなかった。
人間、晩年を幸せに過ごすためにはお金だけでは足りない。礼節のある適度な距離の友人が絶対に必要になる。自らの心の頑なさを理由に、その友人を失くすようなことは避けたいと思った作品でした。