懐古趣味も悪くはない。
最近、ようやくそう思えるようになってきた。以前はむしろ嫌悪を抱くほどであった。特に著名人が昔は良かったとの回顧談を語るのを、うんざりしながら聞いていた。とりわけ、飲食にかかわる回顧談は、話半分に聞いていた。
老人が昔の料理は良かったと語るとき、その良かったには料理とは無関係の当時の思い出とか、思い入れが含まれている。まだ若かりし頃の思い出であり、仕事でもプライベートでも人生の盛りの頃の思い出である。その輝きが昔の料理の背景にある。
人生の最盛期の麗しき思い出の土壌に、昔の料理の記憶を添えて評価しているのだ。だから昔の名店を取り上げて、だから今は駄目なんだとの言い分は客観性に欠ける。だから大人しく聴いてはいたが、それを真に受ける事は、まずなかった。内心、新しいものへのチャレンジを厭うているだけだろうとも思っていた。
しかし、さすがに自分が50代に入ると、たしかに昔を懐かしむ保守的な喜びに浸れる悦楽は確かにあると実感できる。昔懐かしい店で、昔と変わらぬ味に接した時に感じる喜びは、人生の風雪に耐えた味であり、単純に料理や店の雰囲気だけで味わえるものではない。
これは私の主観だが、単なる味覚の基準はおそらく十代までの家庭の味、すなわち母の手料理の味で決まってしまう。しかし二十歳以降の酒を覚えてからの味覚は、自らの生き方で変わると思う。
つまり愛する異性との会食の味であり、チームメイトとの勝利を祝う祝杯の味であり、同僚や上司との仕事上の成功の味でもある。それは時には失恋の味であり、悔し涙の味であり、癒しきれぬ苦悩の味でもある。だからこそ忘れがたい味となる。
単なる料理の味ではなく、人生における様々な場面での味であるがゆえに、その料理は深く心に刻まれる。
だからだろう、良く出来た小説には雰囲気のある店での食事が重要な場面となって描かれることは良くある。そんな場面を数多く描いてきた時代小説の大家である池波正太郎は、文壇屈指の食道楽で知られた人である。
単なるグルメのガイドブックではなく、池波本人の人生を振り返るように、日本各地の名店とその料理の数々を紹介したのが表題のエッセーだ。20年以上前に書かれた本であり、今となっては失われた美食の数々ではある。
だが洋食から和食まで、高級料理から庶民料理まで、広く深く楽しんできた池波の食道楽をなぞるように楽しめる珠玉の文となっている。第一、そのタイトルからしてイイではないか。
私も散歩が好きだ。30代の頃は銀座から渋谷まで、いくつもの散歩道を楽しんでいた。なにが楽しいって、この散歩道には美味しい店のある町がいくつもあるからだ。
まず新橋、ここは庶民的な店が多く中高年サラリーマンの憩いの地である。そこから虎ノ門を経て溜池経由で六本木に向かえば、少し日本離れした雰囲気のイタリアンやステーキハウスが軒を並べている。ここで食べてもいいが、少し我慢して肉の名店が多い五反田界隈まで歩いてもいい。その先にエッチな風俗街があるのは内緒である。
ところで新橋には向かわず、日比谷公園を抜けて赤坂に向かう道も楽しい。ここは焼肉屋や洋食屋もいいが、実はケーキ屋や和菓子屋も楽しい。ここを我慢して青山や表参道まで行けば、おしゃれな雰囲気が漂うカフェやレストランが散在している。表通りから一歩踏み込んだあたりに多いので、探すのが大変だが、それもまた散歩の楽しみである。
どちらも最終的には渋谷へ向かうのだが、渋谷なら西口の東急の裏あたりがいい。ここは昔の渋谷の雰囲気が色濃く残っている。ちょっと匂いを追えば、焼鳥屋や焼き肉屋に辿り着く。ここで一杯も悪くない。
ここで満足せずにセンター街界隈まで行けば、薄着の女性たちを鑑賞できる。いくら昼間は暖かくとも夜はまだまだ冷える。それなのにあの薄着なのだから、若い女性のお洒落感覚はよく分からない。まァ、目の保養にはなる。でも食い意地の張った私は、ラーメン屋に飛び込む。この辺りは美味いラーメン屋の激戦区なのだ。
やがて満腹して幸せそうなオジサンが、井の頭線でうつらうつらしながら帰宅の途につくわけである。
散歩の時は、ことさら美味しいものが食べたくなる。だからこそ、表題のエッセーは楽しいと思う。まァ掲載された店の大半は、今はもうないとしてもね。