サンカ伝説と云われるものがある。
率直にいって、かなりの創作があると思うが、それでも政府の目の届かない山奥に暮らす人々は実際にいたと私は確信している。何時の時代であっても、時の権力者の目から逃れたいと思う人たちは必ずいた。
幸か不幸か、日本列島の7割は山岳地帯であり、農耕に拘らなければ、山地でも生きていくことは出来た。降雨量が多いだけに、飲み水も豊富であったことも大きく影響している。
人別帳を作って、日本列島の住民を全て掌握しようとした最初の政権は、おそらく徳川幕府である。強力な封建体制を作った徳川幕府ではあるが、完全にすべての日本人を掌握してはいなかったようである。
しかし、明治維新後、強力に近代化を推し進める明治政府は、いくつもの大きな戦いを遂行するため、可能な限り労働力(兵隊を含めて)を確保するために、野山に隠れ住む人たちをあぶり出し、強制的に日本国民として掌握した。
今日、公的には、野山に隠れ住む人たちは存在しないことになっている。サンカ伝説は、完全に過去の亡霊と化したはずであった。
でも私は知っていた。野山に隠れ住む人たちは、今も確実に存在することに。初めて知ったのは、高校生の時の裏丹沢登山であった。晩秋の山を歩いている最中に、あまりの落ち葉の多さから、登山道をはずれてしまい、道に迷った。
その際に、偵察に行き、そこで感じたのが誰かの視線であった。野生の動物たちも、侵入者である人間を看視することはあるが、それとは異なり、ねっちりとした悪意を感じさせる視線は、人間独特のものだと思う。
推測だが、おそらくは当時山中に潜伏していた過激派の連中だと思う。噂は耳にしていたが、それを実感したのはこの時が初めてであった。あの頃は、あさま山荘のリンチ事件などで、連合赤軍の残党が都会に居場所をなくして、山間に隠れていると云われていた。裏丹沢は、交通の便が悪く、人目も少ないため、潜むには良かったのだろう。
その翌年の夏のことだ。高校のWVのOBと一緒に沢登に、今度は西丹沢の沢を遡行した時だ。大休止の際に、トイレのために藪の中に入り込んだ時に、妙な獣道を見つけた。いや、獣道にしては、地面が固いし、なにより踏み痕として、なにやら登山靴ではない、靴跡があった。
その沢筋は、ハイキングコースからは外れているベテラン向けの沢だけに、一般の登山者が入り込むはずはない。気になったが、まずは下半身の需要に応じる必要から、適当な場所を探し、穴を軽く掘って所要を済ませた。
さて、先輩たちが待つ沢筋に戻ろうと思ったら、妙なものが目に入った。斜面に枯れ枝が重なり合うように立てかけた、簡易避難小屋のような建造物であった。子供の頃、ボーイスカウトをやっていた時に、似たような避難小屋を作ったことがある。
回りの風景のなかに溶け込んでいるので見つけにくいが、枯れかけた葉っぱの色合いの違いから私は気が付いた。どうやら、見つけにくくしているらしい。誰かいるのだろうか。人の気配はないが、明らかに暮らしている痕跡はあった。
ここは標高が高く簡単には近づけない。地元の人たちの作業小屋にしては粗末だし、さりとて小屋というよりも斜面に横穴をほった入り口を隠している感じがした。気になって近づいてみると、足元にピアノ線が張ってあるのに気が付いた。その先には鈴らしきものが付いている。
こりゃ変だ。
私は近づくのを止めた。こんな罠をはるような避難小屋があるものか。誰かが人目を忍んで、ここで隠れているに違いない。そんな連中とは、関わり合いになる必要はない。きっと、他にも罠はあるだろうと思い、元来た道を慎重に引き返した。
沢筋に戻ると、既に先輩たちが出発の用意をしているので、慌てて駆け戻り、私も準備を始めた。おかげで、あの山中の掘立小屋のことを話す機会を失した。
その後、沢を詰めて藪漕ぎが始まり、ヘトヘトになったので、あの小屋のことはすっかり忘れてしまった。誰が、あそこに潜んでいたのかは知らないが、それが過激派の学生か、はたまた犯罪者か、いずれにせよ世間から隠れていたい人なのは間違いないと思う。
おそらく、そのような人たちは古来より、絶えることなく必ず居たのであろう。今も昔も、国の如何かを問わず、そのような山に隠れ住む人たちは居たのだと思う。
そう確信できるのは、私もかつては山に隠れ住みたいと思っていたからだ。残念ながら、それを可能にする身体ではなくなったので諦めた。野山で暮らすには、健康と体力が必要不可欠だからだ。
でも、もし可能だったならば、一度はやってみたかった気がする。世間から遠く離れて、山菜取りと、魚、小動物を食べながら野生の過酷な暮らしを楽しむ。ある種の現実逃避だとは分かっているが、世知辛い世間から離れて生きていけるのならと、今もふとした時に考えることはあるのです。