ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

イヌ、ネコ、ネズミ 戸川幸夫

2015-11-06 12:02:00 | 

身近すぎて、かえって盲点なのかもしれない。

例えばネコがそうだ。ネコ好きな人は多いし、人間にとって身近な動物だと思われている。しかし、干支にはネコはいないし、聖書にネコは登場しない。いったい、何時からネコは人間の生活に入り込んできたのだろうか。

ネコといっても、家猫と野生の猫、すなわち山猫は違う。山猫ならば世界中にいるし、日本にも数千年前から遺骨が見つかっている。しかし家猫は違う。実は家猫は、古代エジプトでのみ生息されていた。

そのエジプトから世界に広がるわけだが、もちろん理由がある。勘のイイ方なら分かると思うが、キーワードはネズミである。農耕が人類の主要な産業となるに従い、農産物を蓄積するようになる。その農産物を食い荒らすネズミ退治のために、家猫は世界に拡散したと考えられている。

ちなみに山猫は、家猫の替わりにはならない。山猫は人に懐かない以上に、家畜を食べてしまうからだ。この習性は直すことは出来ず、人間と共生できたのは、この古代エジプト原産の家猫だけである。ネズミの駆除に家猫は最適であった。

そのネズミだが、地球上には約1500種のネズミがいるが、意外なことに人間の家に入り込むネズミは、わずかに3種類である。すなわちドブネズミ、クマネズミ、ハタネズミであり、この三種がネズミの世界では、多数派を占める。

ネコもネズミも、共に人間と共生することで繁栄している。もっともネコは愛玩動物となっているが、ネズミはその逆である。立場が違えど、共に人間の生活圏に入り込むことで生き残りに成功したと云える。

そして、もっとも人間との共生に成功したのが、他ならぬ犬である。この犬は家猫ともネズミとも異なり、人間と擬似的な家族となる。ネコもそうだと主張する愛猫家は多いと思うが、やはり猫は猫。猫にはネコ独特の社会があり、夜な夜な集会を開くと云われるように、人間とは異なる生息域をもっている。

極端なことを云えば、もし明日人間が突如滅びたとしたら、世の中の飼い犬の多くが死滅する可能性が高い。それほどまでに犬は人間との共生関係にある。しかし、猫は生き残る。

生き残る犬がいるとしたら、それは狩猟能力の高い犬だけだ。ところが、犬は人間の手により愛玩動物として改良に改良を重ねてきたため、狩猟能力を残している犬は、もはや少数派であり、多くの家犬は人の手からの餌に依存している。

これほどまでに、人間に依存している犬ではあるが、そのコミュニケーションは、やはり人とは異なる。私は幼い時から、わりと犬が身近に居たので、なんとなく分かる。

おそらく犬は人の言葉を理解していない。ただ、音声として認識しているだけで、自分の名前さえ憶えているのか怪しいと思う。その代り、空気というか雰囲気を読む能力の高さが、人とは異なる高水準のものとなる。

単に音声としてでなく、その音に潜まれた人間の感情の起伏を感じ取る。その手つき、身振りから人間の真意を読み取る。おそらくは人の体臭の変化などからも、人の意思を読み取っていると思う。

私が子供の頃に飼っていたルルという雑種犬は、けっこう暴れん坊で、鎖を外すと、喜び回り、庭を駆け巡り、道路に飛び出してしまう。いくら私が呼んでも、振り返るだけで、決して戻ってこない。

ところが、ルルを追いかける私が転唐オて痛みから泣いていると、真っ先に駆け寄ってきて私の傍に寄り添ってくれる。ただ、それだけなのだが、ムクムクのワンコが傍にいる安心感は、なによりも私を落ち着かせた。

ルルは決して賢い犬でもなかったし、従順でもなかった気がするが、人の気持ちを察する能力が高かったことは間違いない。言葉は理解できなくても、人の気持ちを読み取る能力は、極めて高かったと思う。

ネコにも似たような能力はあるが、ネコは自分本位なので、人に寄り添ってはくれない。ただし、気分次第で人に甘えることはある。実に気まぐれである。このネコの自主性は、案外と一人暮らしの人間には便利だったりする。あまり世話をする必要がないからだ。

一方、犬は擬似的な家族であり、その食生活は人に依存している。それゆえ目が離せないというか、ほっとけない存在である。私はいつか、犬を飼いたいと思っているが、今の状況を考えるとネコのほうがいいかもしれないと思っている。

さあ、どうしよう。実に悩ましい問題である。

コメント (6)
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