形あるものは、いつかは壊れる。
週末のことだが、自宅で珈琲を飲みながら、のんびりPCでゲームをやっていた。ふと気が付くと、肘が濡れている。なにかと思ったら、珈琲がこぼれていた。
はて、いつこぼしたのだと訝りながら、よくよく見るとこぼしたのではなく、カップから漏れていることに気が付いた。そういえば前夜に台所でカップを落としたことを思い出した。
そこで良く洗ってから、明るいところで見てみると、小さなひび割れができていた。ここから漏れたようだ。
この珈琲カップを買ったのは大学3年の春だ。神戸の街を散策した際に、路地裏にあった雑貨店で一目見て、気に入って買ったことを思い出した。神戸の街は、私が全国をふらついていた中でも、珈琲の特に美味しいところであった。
多分、六甲山地からの水が珈琲に合っていたのだと思う。もちろんケーキも美味しかった。もう今から30年以上前のことであり、阪神淡路大震災もあったことだから、あの店もあるかどうかも分からない。
陶器のカップなのだが、非常に分厚い造りながら、あまり重く感じないのは、取っ手の作りが良かったからだと思う。熱い珈琲が冷めにくいのも気に入っていた。他にも珈琲カップは持っているが、この20年ちかくはこのカップしか使っていなかった。
ちなみに紅茶用のカップは別に持っている。こちらは薄くて軽い磁器製のカップで、真っ白なカップなので、紅茶の色合いが綺麗に出るので気に入っている。でも、珈琲には合わないと思って、使い分けてきた。
試してみたが、やはり珈琲を入れるには向いていないと感じてしまう。多分、私の思い入れが深すぎるからなのだろう。仕方なく食器棚を探してみるが、数がある割には、私の気に入るカップがないことに気が付いた。まァ、大半の食器は母が買い揃えたものであり、それを無造作に私が使いまわしていただけ。
日頃、食器などに対するこだわりはないのだが、使い慣れたものは失ってみると、その価値に気が付いてしまう。形あるものは、いつかは必ず壊れるものだ。それは分かっている。でも、やはり寂しいものだ。
旅先で偶々入手したカップなので、同じものを見つけるのは難しいと思う。でも、まァ、気長に探してみますかね。それまでは暫定的に、他のカップを使うでしょう。あるいは台所の奥を探せば、案外いいものが見つかるかもね。
追記 ゲーム仲間からの助言で、陶器のひび割れならば、米のとぎ汁か片栗粉でヒビを埋めることが出来ると聞いて、現在修理中です。やはり使い慣れたものは、大事にしたいですからね。