ヌマンタの書斎

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チャイコフスキーコンクール 中村紘子

2019-02-07 11:44:00 | 

>ピアノは、弦をハンマーで叩くことで発音する鍵盤楽器の一種である。鍵を押すと、鍵に連動したハンマーが対応する弦を叩き、音が出る。また、内部機構の面からは打楽器と弦楽器の特徴も併せ持った打弦楽器に分類される。(wikiより引用)

現在、我々が目にする、あるいは耳にするピアノとはモダンピアノと呼ばれるものである。このピアノは産業革命の産物としての側面を持つ。すなわち弦により張力の強い鋼線を使用することで、従来のピアノ以上に音域と音の響きを高めることが可能になった。

この張力は総計20トンにも及ぶため、ピアノの枠組みもまた鋼鉄を使っている。だからこそ、あれだけのサイズが求められる。このモダンピアノの設計には、ショパンなどの音楽家が数多く参画している。ショパンがピアノの登竜門とされるのも、故なきことではないようだ。

音楽家の需要に応じて改良を重ねてきた成果でもあるため、単に演奏するだけでなく、作曲など多用途な使用がされる極めて汎用性の高い楽器であると云える。

私がピアノの魅力に気が付いたのは、20代の時の長期療養中であった。学生の時にも、山に携帯用の小型テープレコーダーを持ち込み、夜半にキース・ジャレットやビル・エバンスのジャズピアノの曲を聴いていたことはあるが、当時はそれほど入れ込んでいた訳ではない。

本当に身を入れて聴くようになったのは、やはり身体が不自由になった難病の療養時期であった。実際、ピアノの音の表現域の広さには驚かされる。そして当時、気持ちが荒れていた私を癒してくれたのは、勇壮な交響曲でもなく、壮大なオペラでもなく、ピアノソロの楽曲であった。

勘の良い人なら、もうお分かりだと思うが、あの当時私がはまっていたのは、ショパンの楽曲であった。既に音源のデジタル化は始まっていたが、私は中古のレコード屋を回ってLPを買い揃えていった。

当時、良く聴いていたのは、ウラディーミル・ホロヴィッツとマルタ・アルゲリッチであった。レコードプレイヤーにLPをセットして、漠然と部屋に音を漂わせていただけだが、気持ちを穏やかにする効果があったと思っている。

正直にいえば、私にはピアニストの優劣とか、曲の良し悪しを判断するだけの判断力はないと思う。ピアノに関しては、ほぼ素人であり、大きな口を叩けるだけの資格はない。

ただ、私の判断基準は明確であった。要はもう一度聴きたいか、否かである。気に入れば、何度でもリピートするし、そうでなければしまい込んでしまうだけだ。

そこで表題の作品の著者である中村紘子である。まず第一に言っておくが、そんじょそこいらのエッセイストと比しても、文章の上手さは群を抜いている。文章が実に練れている。だから、この作品も実に楽しく読ませて頂いている。

実は彼女のCDを一枚だけ持っている。ただし、一度だけ聴いて、しまい込んでしまったので、今はどこにあるのか分からない。

下手だと思った訳ではなく、特に感銘を受けなかったので、再び聴くことなく仕舞い込んでしまっただけだ。だからこそ、疑問に思わずにいられない。日本人のピアニストの中でも、この人の存在感は別格だと思う。

クラシック音楽及びピアノの普及にあたって、この人の貢献度は非常に高いことは、素人の私でも分かる。クラシック音楽に対して冷淡であった私でさえ、中村紘子の名前は知っているのだ。存在感、抜群であった。

それなのに、その演奏は抜群とは言いかねた。この本を読んでいる最中、ネットで彼女の演奏を数度、聴いてみたのだが、やはり感銘は受けなかった。ネット上の素人談義でも、あまり好評価とはいえないようだ。

断言するけれど、文章家としての彼女の本は間違いなく面白いものだ。でも演奏家としては、どうも若い時で終わっている気がしてならない。まだ日本人に対する評価が好ましくない時機に、かのショパン・コンクールで4位の実績はたしかなのですけどね。

ちなみに、その時の一位は、アルゲリッチ女史です。この人の演奏は、素人耳の私でも分る華麗なもの。1位と4位って、これほど差がつくものなのかしらん?と疑問に思ってしまいました。文章は面白いのですけどね。

コメント (2)
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