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ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

滝川一益

2020-05-04 15:03:00 | 日記

人の人生、どこでどう変わるかなんて分からないものだと、この人の生涯を想うと強く感じる。

尾張の小領主に過ぎなかった織田信長が「天下布武」を掲げて躍進できた大きな理由の一つに人材登用がある。戦国時代は人の移動も激しく、武士が仕える主君を変えることは珍しくない。

だが新たに使えて主君の元で十分に活躍できるかどうかは別問題。如何に有能な人材でも、大名は古参の部下を重用するものだ。なまじ有能だと、古参の同僚から妬まれて、却って活躍の場を失うこともある。

その点、織田信長は偉かった。新参者でも分け隔てなく活用し、その能力を活かした。本能寺の変直前の信長の重臣なんて、柴田勝家と丹羽長秀、池田常興以外は皆外様というか新参者ばかりである。

裏切った明智光秀なんて、信長が最も重用した重臣だが、やはり新参者から実力と実績で出世している。もちろん羽柴秀吉もその一人であり、明智のライバル的存在でもあった。

実はもう一人、新参者でありながら古参の重臣よりも重用されていたのが滝川一益であった。信長が尾張の小大名であった頃に、その配下となり、重要な戦いでは常に登用されている。

長篠の戦いでは、鉄砲隊の総指揮官を務め勝利に貢献した。裏切った荒木への有明城戦では、内部工作で内通者を造りだして落城に大きな役割を果たした。鳥羽水軍とも親密であり、顕如ら本願寺勢との戦いでも勝利に大きく貢献している。

守って良し、攻めて良しの名将であるばかりでなく、交渉ごとでも活躍する万能ぶり。明智、羽柴と並ぶ実力派の重臣であったのは間違いない。しかし、本能寺の変以降、あっというまに姿を消した残念な武将であった。

原因はいくつかあるが、大きな原因はその配置場所にあった。東の難敵である関東の北条氏との最前線を任されていたため、信長の死の情報が遅かっただけでなく、北条方の追撃もあり、撤退もままならぬ状況に陥った。

そのため、織田家の今後を決める清州会議に参加出来なかった。しかし、彼の失墜の最大の理由は他にある。織田家に拘り過ぎて、織田信長の目指したものが分かっていなかった。だからこそ同様に織田家を支える覚悟しかなかった柴田側についたことで、彼の失墜は決まってしまった。

信長の掲げた「天下布武」の継承を覚悟した秀吉と、信長の残した織田家の存続を主目的にした勝家とでは、その見据えるものが違った。勝敗は初めから決まっていたとさえ極言しても良い。

そして残念ながら滝川一益は後者であった。信長傘下の武将では屈指の名将なのだが、信長の姿は良く見ていたが、信長が目指したものは見えてなかった。

秀吉は、かつての有能な同僚を自由にさせておくほど馬鹿ではなく、狡猾に一益を表舞台から退かせた。不幸なことに、晩年失明してしまったことも、滝川家の失墜に一役買っている。

家康が天下を取った時には、既に表舞台から完全に消え失せた人となっていた。幸い次男は、徳川方に付いたため、血筋こそ残ったが、滝川家が歴史の表舞台に立つことは、まったく無くなってしまった。

明智のように不名誉な消え方をしないだけ、マシだったと云えるが、あれだけの実力者があっという間に消え去ってしまうのだから、戦国時代とは恐ろしい時代であったと思います。

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