ヌマンタの書斎

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藤堂高虎

2020-05-21 12:27:00 | 社会・政治・一般

プラモデル造りにはまったのは、概ね小学校高学年から中学2年くらいまでの期間であった。

造るのは主に第二次世界大戦中のプロペラ戦闘機、戦車、戦艦や空母などであった。それ以外で好きだったのが、日本の城であった。名城として世界的にも名高い姫路城や熊本城は当然のように造った。

歴史好きでもあったので、プラモデル造りを止めた後も、実際に城跡を散策することもやっている。もっとも関東は意外と少なくて、小田原城や八王子城跡くらいしかない。やはり城の本場は中部、関西、九州、四国である。

実際に訪れてみて、私が気に入ったのが今治城と宇和島城である。なかでも宇和島城は一見四角形の形状に見えるが、実際には五角形となる工夫を凝らした城である。

この城を造ったのは、戦国時代末期の武将である藤堂高虎。事実上農家であった没落した武家の身で、8度も主君を変え最後は徳川外様筆頭ともいえる地位に付いた武将である。

儒学を重んじた徳川の世では、主君を変え過ぎだと誹謗されることもあった。また徳川家は古くからの家臣団を重視していたが、家康があまりに高虎を重用するので妬まれることも多かったという。

妬まれても恐れられかつ重用されたのは、彼が有能な武将であったからだ。190㎝を超える大男であるばかりでなく、若い頃は戦場では常に先頭を駆け、全身傷だらけであった。家康は戦いの際、先陣を任せるのは譜代の井伊家と外様の藤堂高虎であったのも決して故なきことではない。

城を造らせれば加藤清正と並ぶ名人であるばかりでなく、関ヶ原の戦いでは西軍の武将を幾人か離反させている。まさに柔軟兼ね備えた万能型の武将であった。だがその人生は常に順風万端であった訳ではない。

若くして浅井長政の一兵卒として勇名を挙げたものの浅井家は滅亡、その後4度主君を変える流浪の困窮生活を送っている。転機になったのは羽柴秀長に仕えてからである。

秀吉の異母弟である秀長は、秀吉の躍進を陰で支えた功労者であり、高虎はここで築城から兵站、外交交渉、調略を学んだと思われる。言い換えれば、秀長こそ高虎を育て上げた名君であった。

余談だが、もし秀長が長生きして秀吉を最後まで支えていたのならば、豊臣家の治世は続いていたかもしれない。秀長は派手な活躍こそないが、地味ながら大事な役割を果たしていたと思う。三成らの専横を許さず、武断派と文治派の争いも止められたと思う。

その秀長の死後、落胆したのか高虎は剃髪して高野山に入る。しかしその才を惜しんだ秀吉に引き戻されて活躍。だが、秀吉の死後、武断派と文治派に分かれて対立が始まると、高虎は家康側に付いた。

思うに高虎は、仕えるべきは家名ではなく、個人であると考えていたのだろう。想像だが高虎が仕えるべき主君だと考えていたのは羽柴秀長、豊臣秀吉そして徳川家康の3人だけであったと思う。

家康にとって幸いだったのは、高虎は徳川二代目将軍である秀忠のことも評価していたようで、その後は徳川体制の下で外様大名として落ち着いている。落ちぶれた武士の子として百姓同様の暮らしから流浪の生活のすえに大名にまで出世して後世に名を遺した男、それが藤堂高虎でした。

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