ヌマンタの書斎

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北政所

2020-05-14 13:02:00 | 社会・政治・一般

今少し、その功績を高く評価されても良い気がする。

私がそう思うのは、豊臣秀吉の正室である北政所こと、寧々である。

秀吉がまだ木下姓を名乗っていた頃に、当時としては珍しく恋愛結婚で結ばれた。秀吉が出世するにつれ、女好きの悪癖が出て浮気三昧。寧々はその不満を夫の上司である織田信長に愚痴っている。

すると信長は、秀吉にはもったいない良妻であると寧々を褒め上げ、なんとか夫婦仲を戻すように切々と説いている手紙を寄こしている。この手紙は現存しているのだが、最後の方は次第に字が小さくなっていく当たり、信長の必死さが伺えて微笑ましい。

信長自身、子供のいない正室(お濃の方)に家のことを任せており、寧々が秀吉の片腕として羽柴家を切り盛りしていることを重視していたのだろうと思う。

実際、出征等で不在が多い秀吉の家庭を支えていたのは、寧々であった。親戚から有望な子弟を集めて、秀吉の子飼いの武将として育てたり、長浜の領地の管理をしたりと、その手腕を信長も高く評価していたようだ。

子飼いの若者には、福島正則、加藤清正、黒田長政、石田佐吉(三成)大谷吉継と後の豊臣家を支える武将が集っており、寧々は母の如く慕われていたとされる。

子を成さなかった寧々ではあるが、秀吉は大切にしており、側室を連れての遠征であった小田原征伐の際にも、一番沢山手紙を送ったのは他ならぬ寧々宛であったほどである。

だが晩年秀吉は、秀頼を産んだ淀君(茶々)を寵愛した。正室である寧々は表立った確執もなく、豊臣家の内部の管理を石田光成らに任せ、一歩引いた形で上手く折り合いを付けていたようだ。

私は寧々という人物の本音あるいは真価は、秀吉の死後にこそあると思っている。

秀吉の死後、寧々は大阪城を離れ、京都に移って故人の祭祀を守っていたとされる。これは私の想像なのだが、寧々はおそらく秀頼を本当の秀吉の子だとは見做していなかった気がしてならない。

そう考えないと、その後の豊臣家の滅亡に関する態度が納得できない。まだ一介の侍大将に過ぎなかった秀吉と結婚し、子供こそ作れなかったが、立派に家を守った賢妻である寧々が、その豊臣家の滅亡に抗う姿勢を見せていないことが、私は納得できない。

現実問題、寧々の政治的な立場はおそろしく微妙であった。なんといっても秀吉の正室である。しかも秀吉と共に豊臣家を支えてきた大黒柱である。五大老では家康と並ぶ宿老である前田利家の妻まつとは親しく、加藤、福島、黒田といった武断派の若手には母として慕われる。

その一方で、豊臣家の財政を、石田三成ら係数に明るい奉行に引き継がせるなど、重要な役割を担っている。関ヶ原の戦いでは、家康側に付いた加藤、福島、黒田とは冷静に距離を取りつつ、その関係を断つことはしていない。

その一方で、三成らとも連絡を絶やさず、形の上では西軍方に近い中立的な立場を維持している。どちらが勝っても、深入りしていないが故に生き残れる立場を維持していたのだから、その政治的なセンスは相当なものだ。

家康とは必ずしも良好な関係ではなかったようだが、後継者である秀忠には良く慕われていただけに、豊臣家が滅んだ後も、しっかりと生き残っている。前田利家の妻まつもそうだが、この時代の武将の妻には相当な政治的なセンスが求められる。

ちなみに家康との関係がこじれたのは、子を持たぬ寧々が実家の木下家に固執して、それが家康の怒りを買ったためであり、領地没収をされている。しかし人質時代の秀忠を寧々が親身に接した為か、二代目の将軍である秀忠にはたいへん慕われており、木下家ともども寧々は生き残っている。

戦国時代は、生き残ってこそ勝者である。夫と作り上げた豊臣家を失ったが、長年狽チた人脈で生き残った寧々の処世術は、やはりたいしたものだと思います。

コメント
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