人生最大の危機を、最高のチャンスに変えた男、それが徳川家康ではないかと思う。
三河の土豪の息子であった家康の人生には、幾度となくピンチが訪れている。三方ヶ原の戦いや、本能寺の変の直後の伊賀越えなど何度も死地を潜り抜けている。
しかし、最大のピンチは関東への移封命令であったと思う。時は豊臣秀吉の北条打唐フための小田原攻めの終了後である。20万の大軍を率いて北条氏を屈服させた秀吉の最盛期である。
温暖な三河の地の土豪として苦労に苦労を重ねて守ってきた先祖伝来の領地を捨てて、未知の関東への移設命令はあんまりといえばあんまりである。長く家康に付いてきた家臣団も憤懣やる方なかったと思う。
現代を生きる我々は、関東が日本最大の平野であり、後の徳川家の石高の大半を占める豊かな地であることを知っている。江戸が大阪どころか、世界屈指の大都市であったことも知っている。だから疑問に思うことは少ない。
しかし、家康が訪れた関東の地は平野ではなく、湿地帯であった。上野山や高輪台に低い丘があるだけで、後は水はけの悪い湿地に過ぎなかった。家康の巡行に同行した家臣団の面々は失望する以上に怒りを爆発させたと思う。
もちろん秀吉はそのことを知っていた。そして家康が怒る家臣団に引きずられる形で、秀吉に刃向かうことを期待していたはずだ。既に全国統一を既定のものとしていた秀吉にとって、豊臣家の安泰を脅かす最大の敵は徳川家康であることを想定していたと思う。
既に小牧・長久手で一度戦い、野戦では秀吉軍を破っている家康である。だからこそ秀吉は20万の大軍を率いる権勢をもってして、徳川家康を排除する覚悟があったと思われる。そのために三河から関東への移封を命じて、家康の反逆を狙ったのだと私は考えている。
だが驚くべきことに、家康は素直に秀吉の命に従って江戸へ移っていった。忍耐の人、家康の本領発揮だと思うだろうが、私の見方は少し違う。家康は関東大湿原に未来を賭けたのだと思う。
実はこの時代、関西は疲弊していた。幾度も戦火に襲われた京都はもちろん、奈良も難波も街としては荒廃していた。大阪城建築などで、周辺の山々は森林伐採が進み、水害も多数発生していた。
だからこそ未開の地である関東近辺の山々の森は建築用木材の宝庫であった。同時に新田開発が十二分に見込める土地でもあった。しかし、如何せん洪水を頻繁に起こす利根川の存在が、関東発展の為の障害となっていた。
当時の関東平野は利根川が江戸湾(東京湾)に蛇行しつつ流れ込み、毎年のように河川は氾濫し、新田開発など出来る状況ではなかった。そこで関東を視察して回った家康は、利根川を関東の東側、現在の銚子に流すといった大規模な水利工事に取り鰍ゥった。
これは画期的であると同時に、巨大土木事業であり家康一代では終わらず、孫の家光の代までかかっている。その結果、150万石に相当する新田開発に成功し、これが徳川幕府の財政に大いに貢献したことは間違いない。
湿地と小高い丘が散在する江戸は、家康の命令で各地の大名が工事を請け負い、丘を切り崩して湿地を埋め、堤防を作り、河川を改修して水害を減らしたことで世界屈指の大都市である江戸が立ち上がった。
家康がそこまで予測していたかどうかは不明だが、結果的に秀吉の命令は、徳川家の治世を万全なものとしたことは確かだ。家康は忍耐するだけでなく、未来への展望をしっかりと持っていたからこその偉業だと思う。
逆に秀吉からすれば家康が父祖伝来の地を捨ててまでして、自分の命令に従ったことに満足してしまったことが痛恨のミスであった。秀吉の死後、今度は家康が豊臣家に無理難題を突き付けて反抗させたのは、見事な意趣返しであった。
秀頼や淀君には、家康のような忍耐も未来への展望もなかったのだから、その点でも豊臣家の滅亡は必然であったように思います。