ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

宗教の怖さ

2022-09-16 11:40:18 | 社会・政治・一般
日本人はいつのまにやら宗教の怖さを忘れてしまっている。

私は宗教が不要だとは考えていない。宗教は人知を超えた悩みについて答えを与えてくれる素晴らしい叡智である。

古来より人間は、火山の噴火、地震による倒壊、津波による破壊、病魔に奪われる家族の命など理不尽な被害に苦しんでいた。なぜに我が子がと立ち尽くす親の涙は容易には癒せない。

天災や病苦といった人の力ではどうしようもない苦しみに対し、人は抗することが出来ずにいた。解答なき苦しみへの疑問は心を蝕む。唯一、人外の存在である神や悪魔といった概念だけが、人知を超えた難問への回答足り得た。故に神の権威をまとう宗教に、人々は苦しみへの答えを求めた。

だが神の権威をまとうが故に、宗教団体は人々の心を支配する手段となり得た。それゆえ、人を支配する政治は、神の権威をまとうことにより、絶対権威と化すことが可能であった。

人類の歴史に於いて古今東西、いずれの国でも政治と宗教は時には一体化し、時には相互に手を握り、そして多くの場合主導権争いを繰り広げた。そして、その戦いは非道で卑劣で苛烈なものである。

何度でも書くが、人が最も残酷になれるのは正義の看板の下で戦う時だ。なかでも神の正義を背負った時、人は人外のケダモノになる。それは歴史が教えてくれる。だが、このことを学校の歴史教育で教える勇気がある教師は極めて少ない。本当に少ない。

何故なら自らの正義を信じて疑わない信者にとって、宗教の怖さを知られることは、自らの正義を疑われることに他ならないからだ。そんな教師は悪魔の使いであり、学校から放逐せねばならない。実際、学校や教育委員会に苦情が入ったことはある。だから教師は宗教の怖さを教えない。

かつて日本では戦国時代、信長、秀吉そして家康と三代にわたり宗教を押し潰し、武力をもって支配下に置いた。彼らは宗教を嫌ったのではない。あくまで政治の優位性を確立させただけだ。彼らは知っていた、宗教を自由にさせ過ぎると、むしろ争いが頻発することに。

だが徳川400年の平和が、日本人から宗教に対する警戒心を奪ってしまった。平和的な宗教に慣れ過ぎて、宗教は宗派を問わず、日本では生活の中に根付いてしまった。あまりに根付き過ぎて、それが宗教であることさえ忘れている。

幼子を連れて神社にお参りし、クリスマスを祝い、葬式をお寺でやって遺体を火葬してお坊さんに弔ってもらう。まがうことなき宗教行為なのだが、不思議の当の本人は「私は無宗教です」と口にする。

無宗教って奴は、ルネサンスから宗教戦争と宗教改革を得て、血みどろで獲得した人間の理性至上主義であり、神の権威を否定する苛烈な覚悟を必要とする。だが、日本人で無宗教を口にする人に、神を否定する気持ちがある人はほぼ皆無といって良い。

ほとんどの場合、無宗教を口にする日本人は、自分が特定の宗教の信者ではないことをアピールしているだけだ。宗教を否定する気持ちなどありはしない。ただ熱心な信者であると見られることを回避しているだけの場合が大半だ。

この宗教に対する信心の薄さが、宗教に対する無知、無関心につながっている。だから宗教の怖さを認識することを避けるし、宗教の教義について真剣に考えることをしない。これは、ほぼすべての日本人に共通すると私は思っている。

だからこそ、半島で生まれた統一教会なんて代物を、宗教だと認めてしまった。

はっきり言えば、あれは宗教ではなくカルト集団だ。創設者の文の性欲と金銭欲を実現するための手段としての集団、それが統一教会だと私は断言する。

馬鹿げたことに日本で宗教の許認可を与える権限を持つ文部省は、その認可の基準を形式要件だけに限定させている。その宗教の根幹たる教義に対しては、触れようとしない。だからあの異常なカルト集団を宗教団体だと認可してしまった。

多分、その認可の背後には、それを推してくる政治屋や官僚OBがいたのだろうとも思う。金と女を使って権力者を籠絡するのは、カルト集団の基本である。

現在、そのカルト集団である統一教会と自民党との癒着ぶりを非難している野党だって、もし政権の座に居たのならば、間違いなく籠絡されていたと思う。まァ公明党と日本共産党は同質嫌悪から籠絡はされないと思うけど、黙認してきたのは確かだ。

またマスコミやら評論家やらだって、世論の流れが反・統一教会になるのを見計らってから批難の声を挙げたことに変りはない。オームの時もそうだったが、信教の自由を振り回す悪質な宗教団体に対して戦いの姿勢を保てる人は稀である。

繰り返すが、統一教会を黙認してきたのは、ほとんどの日本人が宗教の怖さと対峙することを避けてきたからだ。本当に宗教として正しいのか、その教義を疑う勇気のなさ、事なかれ主義がカルト集団に宗教の仮面を被らせることを認めてしまった。

この日本人の曖昧さは、大人しい日本人同士ならば良識として機能するが、逆に付け込まれる原因ともなる。これを自覚しない以上、これからも第二、第三の統一教会は出てくると思いますよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする