ふとした瞬間に、他人の視線を感じることがある。でも、これって実はとても不思議な現象だと思うのです。
物質に当たった光が反射して、その光が目の網膜に映り、それを映像として脳が認識することで、「見る」という行為が成立します。見るという主体的な行為でありながら、実際は光を受容することで完了する行為なのです。
では、視線を感じる、とはいかなる現象なのか。目は光を受けて、それを映像化する入り口に過ぎず、「目」という器官は光を放つわけではない。それなのに、他人の視線を感じ取れるという現象には、未だに合理的な説明がなされていないのです。
実は先月、渋谷の人ごみのなかで偶然、17年ぶりに友人に再会しました。道端で携帯電話をかけている男性を見て、「あれ?}と思った瞬間にその男性が顔を上げ、「よう!」と挨拶してきたのがきっかけでした。私が視線を投げかけたのは、ほんの一瞬でしたが、彼はその視線を感じて、気が付いたそうです。
なにげない一瞬の視線を、相手に意識させるメカニズムはいかなるものなのか。安易にテレバシーなどと言われても納得できない。自慢じゃないが私は霊感に乏しく、勘は鈍い。それゆえ知識と論理に頼らざる得ない不器用な人間だ。
それでも経験的に、視線にはある種の力があることは否定しがたい。目力(めぢから)という言葉がある。舞台の世界では「目千両」なんて言い方もする。たしかに視線の強い人はいると思う。目の大きさではない。目が大きくても、ぼんやりした視線なら、その視線を感じることは少ない。目が小さくとも、強い視線を出す人は珍しくない。
やはり、目は何らかの光を放っているのだろうか?それとも何かを見るという意識が相手に伝わって、それが視線として感じるのだろうか。
日常的に、当たり前のことなのだが、じっくり考えると不思議なことって、意外とあるものです。それにしても忙しいと、ついつい余計な事を考えたがるのは、私の悪い癖だな。
物質に当たった光が反射して、その光が目の網膜に映り、それを映像として脳が認識することで、「見る」という行為が成立します。見るという主体的な行為でありながら、実際は光を受容することで完了する行為なのです。
では、視線を感じる、とはいかなる現象なのか。目は光を受けて、それを映像化する入り口に過ぎず、「目」という器官は光を放つわけではない。それなのに、他人の視線を感じ取れるという現象には、未だに合理的な説明がなされていないのです。
実は先月、渋谷の人ごみのなかで偶然、17年ぶりに友人に再会しました。道端で携帯電話をかけている男性を見て、「あれ?}と思った瞬間にその男性が顔を上げ、「よう!」と挨拶してきたのがきっかけでした。私が視線を投げかけたのは、ほんの一瞬でしたが、彼はその視線を感じて、気が付いたそうです。
なにげない一瞬の視線を、相手に意識させるメカニズムはいかなるものなのか。安易にテレバシーなどと言われても納得できない。自慢じゃないが私は霊感に乏しく、勘は鈍い。それゆえ知識と論理に頼らざる得ない不器用な人間だ。
それでも経験的に、視線にはある種の力があることは否定しがたい。目力(めぢから)という言葉がある。舞台の世界では「目千両」なんて言い方もする。たしかに視線の強い人はいると思う。目の大きさではない。目が大きくても、ぼんやりした視線なら、その視線を感じることは少ない。目が小さくとも、強い視線を出す人は珍しくない。
やはり、目は何らかの光を放っているのだろうか?それとも何かを見るという意識が相手に伝わって、それが視線として感じるのだろうか。
日常的に、当たり前のことなのだが、じっくり考えると不思議なことって、意外とあるものです。それにしても忙しいと、ついつい余計な事を考えたがるのは、私の悪い癖だな。
視神経を通り、脳にゆかねば、その像は知覚されません。つまり目ではなく脳でみています。
目が力線を放つ訳でないのは仰る通りです。
おそらく、目に入った情報を漫然と眺めていても、潜在意識下でチェックしている。意識のステージに上がっていなくとも、脳の中では過去の記憶の引き出しの中に「何かし符号するものはないか?」と高速回転をしている。ヒットすると、
「うん!?」とか「あれは?」と意識の上に上がってくる。記憶は必ずしも視覚情報だけでなく、
臭覚や聴覚や触角などもあり、それらが漫然となってミックスされてますから、何が意識させるトリガーとなるか解らない。
だから気付いた当人にも、起点となったカードが明確に意識できず、神がかりな現象に感じてしまう。
気配とか視線 の正体とは、このようなモノだと思うのですが。
まだまだ分からないことが沢山ある楽しみっていうのも確かなので、今後の研究に期待したいです。