戦国大名の強さといえば、当然に戦争での勝さである。
戦争とは集団戦闘であり、個人の武力よりも集団としての武力により、その優劣が決まる。単に兵士たちの鍛錬度、武器の優秀さだけでなく、食料などの集荷、運搬、配膳などの兵站とその基盤となる経済力を含めて総合的な国力が重要となる。
そして、なによりも重要なのが情報である。
如何に相手の情報を入手し、それを活用して有利な局面を作り出し、戦局を優位に進める。戦争とは、実際に戦闘が始まる前から、情報、軍備の装備、訓練など総合的な能力が決め手となる。
ただし、実際の戦場では、大名自らが先頭に立って戦う姿勢を見せることが、部下の兵士たちの士気に大きく影響する。
戦場に立つことは、当然に危険性が高い。だからそれを厭うた朝倉氏などは、戦場に出ることが少ないが故に、その優れた軍才を活かせずに消えていった。
逆に甲斐の武田信玄や、越後の上杉謙信などは、実際に兵を率いて戦場に立ったからこそ、その配下の兵士たちの能力を最大限に活かせる。これは信長にせよ、秀吉、家康なども同様だ。
ただし、行き過ぎはダメである。その典型が伊勢の公家大名であった北畠家の8代目、北畠具教(とものり)である。
公家大名ではあるが、戦国時代末において武力により領地を拡大させて、伊勢の大半を支配した立派な戦国大名である。しかし、具教はやり過ぎた。
なにせ戦国時代にあって無敗の剣豪として知られた塚原卜伝の直弟子であり、秘伝「一の太刀」を伝承された数少ない高弟でもあった。相当な剣好きであり、槍の宝蔵院や柳生家など錚々たる武人たちとの交流で知られており、その屋敷は剣豪たちの交流の場であったとされる。
大名となっても己の武撃フ鍛錬は欠かさず、伊勢を平定後は家督の座を長男である具房に譲ったが、実質的支配者であった。家督の座を譲ったのは、戦場の最前線に立ちたかったからだと噂されるほどの戦闘狂であったらしい。
私の見立てでは、一個人としては戦国大名最強である。ただし一人の武人としてである。その後、伊勢平定を目指す信長の包囲網に屈し、信長の子、信雄を養子に迎えることで織田家の配下となる。
如何に個人として強かろうと、戦争は集団戦である。信長の敵ではなかったと思う。私が残念に思うのは、北畠具教には有益な情報があったはずであることだ。彼は塚原卜伝一門の高弟として足利義輝や細川藤孝、柳生家や上泉家ら武家とも交流があり、当然に京の事情や、各地の戦国大名の情報も入手できたはず。
しかし、彼はそれを活かすことが出来なかった。私の推測だが、おそらく先の戦いでは信長の包囲戦に屈服したことが不満であったのだろう。勇将の下に弱卒無しというが、北畠軍は日頃から鍛錬されており、戦場では非常に強かった。
北伊勢を任せていた滝川一益からその情報を得ていた信長は、戦場で雌雄を決するのではなく、大軍を擁して城を包囲し、食糧難に追いやり北畠軍を屈服させている。戦場の勇者であった具教には、それが不満であったのだろう。だからこそ、反逆の機会を狙っていたのではないか。
信長の配下にありながら、本願寺、武田、朝倉らの織田家包囲網に密かに参加し、それを危うんだ部下たちに討ち取られて最後を迎えている。天下の趨勢は、信長に傾いていた。部下のほうが余程天下の事情に通じていたのだろう。
しかし、ただでは討たれなかったのが武人である具教の矜持。19人を切捨て、数十人と切り結び脱出を試みるが、かつての腹心の部下に背後から槍で刺されての壮絶な死に様であったとされている。戦国武将でこれほどまでに最前線で戦った大名は、まずいないと思う。
名門であった北畠家は、ここで滅び織田家に乗っ取られることとなる。ただ後継があの本物のウツケとされた信雄であった為、伊賀と揉めてしまう。それすらも天下統一の過程に組み込んでしまった信長の手腕には驚かされる。やはり天下人は器が違うのだろう。
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