あまりに頑なであることは、時として不幸に思えてならない。
もちろん、何に対して頑なであるかによる。頑固一徹であることは、ある意味信頼であり、誇りであり、品位と敬意を伴うことは珍しくない。
だが、頑なさは、融通の利かなさであり、柔軟性の欠如であり、相手を慮る優しさの欠落でもある。
もっといえば、頑なさとは、心が固いことではないか。固くなりすぎていて、相手を撥ね付けるばかりで、受け入れる度量に欠けていたのではないか。
人生も半世紀を過ぎると、改めて自身の半生について顧みるようになる。いや、顧みざるを得なくなる。
間違いなく、私は頑なな人間だ。それは必ずしも欠点ではなく、むしろこの頑なさに支えられて今日までの自分を作ってきた。苦しい時、逃げ出したい時、なにもかも放り出したいような時でさえ、自らの信念にしがみ付き、頑固一徹に生き方を変えずに貫いてきた。
それが全面的に間違っているとは思わない。ただ、別の生き方、在り様もあったようにも思う。
何故あの時後を追わなかったのか。何故あの時意地を張らずに謝らなかったのか。そして何故あの時黙って立ち去ったのか。
思い返すと後悔ばかりが胸を疼かせる。日頃痛むことはないが、なにかの拍子に思い出すと、じんわりと悔恨が呻きだす。
表題の作品は、イギリスの高名な紳士の下で長年執事として仕えた老人が、旅に出て自らの人生を顧みる物語です。淡い期待を抱きつつ、それが苦く重い悔恨へと変わっていく様を、沈みゆく夕日と暮れなずむ街灯に照らされながら味わう。
あたかも、地下室の奥に大切にしまっておいた珠玉の銘酒を飲み、その味が期待ほどではなく失望しつつも、その酔いを深く味わうかのような読後感は、決して不快なものではありませんでした。
イギリスが斜陽の帝国と評されて久しく、その英国にあって消えつつある職業の典型である執事の生き方を、沈みつつある夕日に照らすように著した物語は、一読の価値があると思います。機会がありましたら是非どうぞ。
「日の名残り」上質ということばがしっくりくるすばらしい作品でしたね。
ヌマンタさんの記事を拝読して、久しぶりに感動が蘇ってきました。
暴力は他の手段のどれよりも、問題解決歴史的に果たしてきているし、頑固さが物わかり良さよりも有益なこともあると申しております。
頑固さがなきゃやり通せない局面もある。
ヌマンタんは修羅場でそれを実行されたわけですね。私はつい先だって前の店のオーナーに退職をごねられ、給与を一方的に差し押さえられてました。
まあ今の店で稼げるので、暮らしは成り立っ。
とはいえ明らかに違法なことをされて、泣き寝入りすると、オーナーとは同郷ゆえ、この地域で開業する時に舐められて妨害さらる恐れもある。
結局、さまざまな裏取りと証言を重ね、未払い賃金の支払いと、互いに案件について口外しない示談書を取りました。
和解して、未払い金を得ても、かけた労力に見会わないです。
でも泣き寝入りしなかったのは、開業の時に不安材料を残したくないからです。(相手は親が金持ちの元ヤンキーですから)
頑迷は困りますが、頑固にやらねばならぬ時はあると思います。
それにしてもあの執事、朴念仁というか、ボンクラですよ、女性の気持ちに対しては。私もあれほどではありませんが、少し通じるところがあるので、殊更印象に残りました。
戦うべき時に戦わない人は、信に値せずと考えています。まァ、どのように戦うかもありますが、大事なものを守るための戦いは避けてはいけないと思うのです。
「日の名残り」読んだのがかなり前なのでディテールをすっかり忘れてしまってますが、それでも最初に読んだ時の感動は今でも蘇ってきます。
カズオイシグロ氏の名前を知った最初の作品でもあるのですが、日系の作家が、これほど英国社会、英国人の心理を描写できる事に少なからず驚きを覚えました。
きっとこの人は完全に英国人なのだろうな・・って思っていたのですが、その後の作品を読むとけっこう日本人としての自分のアイデンティティも模索してるんですよね。
久しぶりで、彼の作品何か読みたくなりました。
私はカズオ・イシグロの文学を論じるほどの見識はありませんが、日系であることがどの程度、影響あるのか不明です。私はほとんど意識しませんでした。むしろ普遍的な感性、価値観の持ち主なのだと考えています。