絵は目で見て描くのではないよ、心で感じて描くものだよ。
そう教えてくれたのが誰だったのか、私は思い出せない。学校の先生ではないような気がする。もしかしたら、スケッチの最中に通りかかった見知らぬ通行人かもしれない。
でも、強く心に刻まれた言葉であった。もっとも、その意味が分かるようになったのは20代も半ばを過ぎてからだ。
幼少時より絵を描くのが好きであった。気に入ったものを、好きな時に、好きなように描き殴っていた。上手いとか、似てないとかは考えていなかった。よく描いていたが、スケッチ帳に描くよりも、教科書の端やノートに描き散らかしていた方が多かった。
だが、いつしか描かなくなっていた。いや、描けなくなっていた。
そのことに気が付いたのが20代の難病の療養期間であった。薬を飲んで寝るだけの毎日に飽きていたので、暇つぶしに久々に絵を描こうと思い立ったのだが、描けない。いや、描くのが怖くなっていた。
見た物をそのままに描くことならば出来たが、それでは満足できなかった。しかし、心で感じたことを描こうとすると、怖気づいてしまい描けなかった。何故なら当時の私の心にはどす黒い感情がヘドロのように詰まっていたからだ。
当時はバブルの最盛期、本来ならば私は若手の有望社員として元気に働いているはずであった。実績も挙げつつあり、社内での評価も悪くなかった。本社からも注目株だと、営業担当常務から直々に励ましの電話を貰ったこともある。
前途洋々であるはずの私の社会人生活は、難病によりすべてを奪われた。原因も分からず、治療法も不確定で、社会復帰の目途は立たない。ただ薬をのむために食事をとり、衰弱した身体を生かすために眠る毎日。
私の心に、徐々に暗く重く、えげつない感情が沈殿し、石化しつつあるのを自覚するようになっていた。そんな自分が嫌で、そこから逃れようと読書、TVゲーム、ヴィデオ鑑賞に没頭するも逃げ切れず。
暇つぶしに絵でも描こうと久々にスケッチブックを開いて気が付いた。今の私には絵を描けないことを。私の心の目線は常に嫉妬と羨望と憎しみで溢れ、どす黒い感情に塗りつぶされていた。真っ白なスケッチブックはそれを映し出す鏡となることに気が付き、私は絵を描けなくなった。
そんな気持ちを持ちながら、それでも絵を描いた男、それが岩佐又兵衛だと思う。
戦国時代末期から江戸時代初期の絵師であり、浮世絵の初期段階の絵師だと評されている。その岩佐が描く絵には、暗くおぞましい喜悦が込められている。
それは絵を見てもらえば感じ取れるのではないかと思う。私なんぞ、怖いほどに共感してしまったほどである。
代表作の一つである「山中常盤物語」のなんと凄まじいことよ。牛若丸として知られる源義経の母、常盤御前が山賊に襲われて殺され、その恨みを抱えて義経の枕元に立ち復讐を願う。その願いを聞き入れた義経が、山賊を打倒する物語である。
平清盛にも見初められた美貌の常盤御前を襲い、突き刺し、切り殺す盗賊の愉悦の表情のおぞましさ。そして復讐に身をゆだねる義経の狂気と狂喜。絵師・岩佐もまた描く喜びに染まっていたことが伺われる画風である。
おそらくだが、岩佐は母であるだしの面影を追っていたのだろう。
今楊貴妃の異名を奉られるほどに美貌であったと伝えられる母・だしは、摂津の大名である荒木村重の側室であった。荒木が織田信長に反旗を翻し、3年余にわたり有岡城に籠城したが援軍が来ない。その状況を打破すべき村重は、城を密かに抜け出して毛利の援軍を自身で頼み込むつもりであった。
城主不在の有岡城を支えたのがだしであったが、遂に城は陥落。裏切りに激怒していた信長の命により、だしは京都市中を引き回されて磔刑にて処刑されている。その際、300人以上の村重の関係者も処刑されているが、一番見事に、そして凛々しく死を慫慂したのがだしであった。
信長公記という書物には、あまり女性が書かれていないのだが、このだしに関しては例外的に詳細に描かれている。作者の太田牛一は信長の側近として、美女美少女には馴れているはずだが、だしの美しさは別格であったらしい。
そのだしだが、有岡城の陥落時、2歳であった又兵衛を乳母に頼んで密かに脱出させ、本願寺に預けた。断腸の思いであったことが、今わの際の詩句から分る。ちなみに逃亡した夫への愚痴は一切書かれていない。凛とした気性の女性であったと伺われる。
成長し、絵師として名を挙げた岩佐は、家康の孫のなかでも問題児として知られる松平忠直の依頼を受けて幾つもの絵巻物を完成させている。どうも、この暴君・忠直と又兵衛は案外と気が合ったのではないかと思う。
その忠直の依頼を受けて描かれたのが「山中常盤物語絵巻」である。そりゃ、凄まじい画風になろうってもんだ。戦争は人間のおぞましい面をさらけ出す。戦国時代には、そのような人の醜さがさらけ出されることは珍しくなかったと思う。
おそらくだが、又兵衛は自身の心の闇を自覚していたと思う。私のように怯えることなく、堂々とその心の闇を通して絵を描き続けたのではないか。彼の絵を見ていると、私はそんな想いに係られるのです。
私には、まだそれだけの覚悟はないですね。芸術は人の心の闇さえも描き出してしまう。ある意味、恐ろしいと思います。
岩佐又兵衛、恥ずかしながら美術書の担当になって初めて知りました。
残酷な絵を描く人だな・・と思ってたのですが、人生にそんな背景がある事を初めて知りました。
歴史的な作品は、やはり時代の背景や作家の人となり、略歴を知る事は鑑賞する上ですごく大事ですね。
彼の作品で、「洛中洛外図屏風」っていう縦長の絵巻本があるのですが、豊臣家滅亡直前の京都の街並み、民衆が描かれていてこれも面白いです。(*‘∀‘)
「山中常盤御前絵巻」を描いていたのは、越後の松平忠直の元に居た時です。真実は闇の仲ですが、忠直という人はいささか猟奇的な志向があったらしく、その異様な感性に又兵衛が感化されたのではと憶測しています。
実際、その後江戸に移ってからは残酷な絵柄は描いていませんから。