勉強が出来ても、バカはバカであるようだ。
私は十代半ばまで左翼活動にいささか関わっていた。家族にも友人にも知らせず、教会の同志との勉強会と称して、民青を中心とした読書会のゲストメンバーとして左翼推奨の本を読み、その読書会でリーダーたちの演説に聞き入る未来の活動家気取りであった。
その時はあまり意識していなかったが、当時のリーダーたちは勉強の良く出来る人が多かった。そのせいか、喧嘩は苦手な人が多かった。当時、学生運動家はヤクザや某大学応援団などに睨まれていて、夜の繁華街ではしばしば喧嘩が起きていた。
応援団の奴らは嫌いだったが、ヤクザ連中には小学生の頃からの知り合いが少なくなかった。知り合いといっても銭湯で背中を流してあげたり、祭りの神輿担ぎの時に指導を受けたりする健全なお付き合いだった。また夜店の手伝いもしていたので、いろいろと知り合いが多かった。
読書会のメンバーが彼らとの喧嘩に巻き込まれると、浮ェる女子学生に頼まれて私が助けに行くことが多かった。まだ子供の私ならば、ヤクザ連中も大目に見てくれるからだ。ただし、応援団の連中はダメで、摘まみあげられて放り出された。
もっとも助けにいくといっても、別に戦う訳ではない。路上でボコられている読書会のメンバーに覆いかぶさり、「このへんで勘弁してあげて」と頼み、彼らを背負ってその場から離れるだけである。
こうして女子学生たちが待っているアパートまで運んであげると、彼女らからお菓子や夜食を振る舞われていた。こちらが目当てであったことは内緒である。
読書会でのアジ(演説のことね)では勇ましい彼ら学生運動家は、実戦では弱いというか、喧嘩が下手だった。私も喧嘩は弱いが、どの程度弱いのか判別できるくらいには場数は踏んでいた。だから内心、相手を考えて喧嘩しろよなと冷淡にみていた。
ただしそれを口にしたことはない。彼らはなまじ勉強ができるので、自身を美化する傾向が強かったことは分かっていた。私が興味深く思っていたのは、知識があり、演説が上手いが実戦は弱い運動家ほど、強い相手に戦う姿勢をアピールしたがることだ。
彼らにとって権力の犬の下っ端であるヤクザや応援団は本来の敵ではなく、最大の敵は日本を支配する自民党政治家とそれを支援するアメリカであるそうだ。だから、彼らの演説では常に権力者との闘争こそが主題であった。だからヤクザや応援団に喧嘩で負けるのは恥ではないそうだ。
子供心に変な理屈だと思ったが、それを口にするほど馬鹿ではない。ただ、この人たちについていって良いのか疑問は感じていた。多分、私が左翼活動から手を引いた一因だと今にして思う。
そんな気持ちを思い出せるのが、最近たまに見かけるコロラドの先生こと、牧田覚である。幾つかの大学を渡り歩いた大学の先生だが、人間関係が上手く行かずに現在は文筆業がメインとなっている御仁らしい。
統計学などを駆使して政府のコロナ対応を批判する記事を書き殴っているので、目にした方もいるかもしれない。最近の主張はコロナ検査の不足だと政府を非難することである。出たな、検査バカが。
私とて日本政府のコロナ対応に不満がないわけではない。しかし、理解できないのが、この手の検査不足を誹謗する方々の主張だ。検査を増やせば、たしかに陽性患者は今より増えると思うが、その増えた患者の受け入れはどうするのだ?
その一番肝心な部分を放っておいて、政府の対応を批難するだけってどうよ。要は政府の失策を批難する自分、偉い~ってだけじゃないのか。
ちなみにこのコロラド先生、実は非常に口が悪いらしい。ツイッター上の公式アカウントが停止処分を受けているのだが、その原因が他者への誹謗中傷。とにかく「死ね」とか「死刑」とか罵詈雑言が目立つ。
私はこの人をみると、十代の頃の左派学生運動家のリーダーたちを思い出します。言論を卑下するつもりはないけど、結局口先だけの輩って、それを内心自覚しているからこそ、言葉が過激になりがち。だから批難しても、反撃してこない政府を狙うのでしょうね。
私は十代半ばまで左翼活動にいささか関わっていた。家族にも友人にも知らせず、教会の同志との勉強会と称して、民青を中心とした読書会のゲストメンバーとして左翼推奨の本を読み、その読書会でリーダーたちの演説に聞き入る未来の活動家気取りであった。
その時はあまり意識していなかったが、当時のリーダーたちは勉強の良く出来る人が多かった。そのせいか、喧嘩は苦手な人が多かった。当時、学生運動家はヤクザや某大学応援団などに睨まれていて、夜の繁華街ではしばしば喧嘩が起きていた。
応援団の奴らは嫌いだったが、ヤクザ連中には小学生の頃からの知り合いが少なくなかった。知り合いといっても銭湯で背中を流してあげたり、祭りの神輿担ぎの時に指導を受けたりする健全なお付き合いだった。また夜店の手伝いもしていたので、いろいろと知り合いが多かった。
読書会のメンバーが彼らとの喧嘩に巻き込まれると、浮ェる女子学生に頼まれて私が助けに行くことが多かった。まだ子供の私ならば、ヤクザ連中も大目に見てくれるからだ。ただし、応援団の連中はダメで、摘まみあげられて放り出された。
もっとも助けにいくといっても、別に戦う訳ではない。路上でボコられている読書会のメンバーに覆いかぶさり、「このへんで勘弁してあげて」と頼み、彼らを背負ってその場から離れるだけである。
こうして女子学生たちが待っているアパートまで運んであげると、彼女らからお菓子や夜食を振る舞われていた。こちらが目当てであったことは内緒である。
読書会でのアジ(演説のことね)では勇ましい彼ら学生運動家は、実戦では弱いというか、喧嘩が下手だった。私も喧嘩は弱いが、どの程度弱いのか判別できるくらいには場数は踏んでいた。だから内心、相手を考えて喧嘩しろよなと冷淡にみていた。
ただしそれを口にしたことはない。彼らはなまじ勉強ができるので、自身を美化する傾向が強かったことは分かっていた。私が興味深く思っていたのは、知識があり、演説が上手いが実戦は弱い運動家ほど、強い相手に戦う姿勢をアピールしたがることだ。
彼らにとって権力の犬の下っ端であるヤクザや応援団は本来の敵ではなく、最大の敵は日本を支配する自民党政治家とそれを支援するアメリカであるそうだ。だから、彼らの演説では常に権力者との闘争こそが主題であった。だからヤクザや応援団に喧嘩で負けるのは恥ではないそうだ。
子供心に変な理屈だと思ったが、それを口にするほど馬鹿ではない。ただ、この人たちについていって良いのか疑問は感じていた。多分、私が左翼活動から手を引いた一因だと今にして思う。
そんな気持ちを思い出せるのが、最近たまに見かけるコロラドの先生こと、牧田覚である。幾つかの大学を渡り歩いた大学の先生だが、人間関係が上手く行かずに現在は文筆業がメインとなっている御仁らしい。
統計学などを駆使して政府のコロナ対応を批判する記事を書き殴っているので、目にした方もいるかもしれない。最近の主張はコロナ検査の不足だと政府を非難することである。出たな、検査バカが。
私とて日本政府のコロナ対応に不満がないわけではない。しかし、理解できないのが、この手の検査不足を誹謗する方々の主張だ。検査を増やせば、たしかに陽性患者は今より増えると思うが、その増えた患者の受け入れはどうするのだ?
その一番肝心な部分を放っておいて、政府の対応を批難するだけってどうよ。要は政府の失策を批難する自分、偉い~ってだけじゃないのか。
ちなみにこのコロラド先生、実は非常に口が悪いらしい。ツイッター上の公式アカウントが停止処分を受けているのだが、その原因が他者への誹謗中傷。とにかく「死ね」とか「死刑」とか罵詈雑言が目立つ。
私はこの人をみると、十代の頃の左派学生運動家のリーダーたちを思い出します。言論を卑下するつもりはないけど、結局口先だけの輩って、それを内心自覚しているからこそ、言葉が過激になりがち。だから批難しても、反撃してこない政府を狙うのでしょうね。
正直、ヌマンタさん目線だと「秀才なだけ男」は
アホにしか見えないと思います。こういう人って
そもそも「検査は何の為にある?」とか考えた事がないのでせうね。日本の受験の弊害すね。
検査てのは「実務の為にある!」という普通のアタマなら理解できる事が理解できない!
例のアフリカのバッタ博士みたく、食えなくても現地スタッフの支援で昆虫研究を続ける学者がいて、口先と偏差値だけのアホが知識人として生き残る。腐ってますな日本のアカデミズム。てか、
日本にアカデミズムなんかあるのだろうか??
ただヌマンタさんは基地の町の悪童から、パチンコ生活、喧嘩、山岳経験、読書に苦難の闘病に、
専門職としての見聞……はっきり言って学者崩れなんかつまらない人にしか見えないでせう。
そもそも注目に値する成果を出している研究者なら、日本史の本郷和人氏みたく、教壇に経たない
ャXトもあったはずで。人間関係だけでなく研究者としても無能だったんでないですかね??
まあこの人がヌマンタ記事と比べても面白い論を書くことは未来永劫ありますまい(笑)
ただ、基本的に学者馬鹿というか専門バカが多いのも確か。世間の風に吹かれるのを厭う御仁が多い。そのくせプライドは異常に高いから厄介です。もっとも、このコロラド先生はそれ以前に人として問題があるようですけどね。