タイトルに問題あり。
これは「・・・がなくなる日」といったシリーズものの新書なので、致し方ないのは分かるが、少し無理がある。著者もその趣獅ノ沿って書いているのだが、微妙にずれている。
そもそも著者が自称するレストラン・ジャーナリストなる仕事にしても、従来の美食評論家とどれほど違うのか、少々疑問にも思える。多少はレストランの経営に踏み込んだ論評もしているが、その踏込がまるで足りない。
基本的にターゲットが一般の消費者だから、その程度でいいとの見込みなのか、それとも経営を判断できるだけの見識がないのか不明だが、レストランの経営に口出すには、かなり力量足らずだと思う。
かなり否定的に書いてしまったが、美味しいものを食べたいと思う一般消費者からの視点で読めば、十二分に楽しめる内容だと思う。私自身、著者と年齢が近いこともあり、そのレストラン来訪史には近しいものを感じて、楽しく読み切れた。
なかでも共感できたのは、厨房がみえるカウンター形式のレストランに対する見解だろう。私も料理人が調理する手際の見事さを楽しみながら食事するのは好きだ。あれも味覚の一部を構成していると思うほどだ。また料理人と気軽に会話できるのも楽しい。
実のところ子供の頃、レストランに行くのは、かなり心理的な障壁が高かった。子供ながら正装というか、だらしなくない恰好で行かねばならぬと思いがあり、気軽には行けなかった。
実際、私が子供の頃レストランに親に連れていかれる時は、普段着ではなかったと思う。幼い時のデパートの食堂はいざ知らず、渋谷や浅草のレストランに行く時は、お出かけ用の衣服を着せられたことは、未だに覚えている。
だらしない恰好が好きな無精者の私は、この一点をもってレストランが苦手との思い込みがあったぐらいだ。このせいで、大人になっても、レストランにはいささか苦手意識があったほどだ。特にホテルのレストランには、未だに苦手意識が残っている。
ただ、さすがに大人になると、この堅苦しさをビジネスライクに乗り切り、形式ばった格式をそれなりに楽しめるようになった。これはいささか偏食気味ではあるが、美味いもの好きの父と、美食が過ぎて糖尿病にまでなってしまった故・佐藤先生のおかげでもある。
実際、美味いが高いお店の大半は、この二人に連れて行ってもらってのものである。やはり場数を踏んで、経験値を重ねると余裕が出てくる。おかげで、体重が増える、増える。困ったものである。
でも、私はやっぱり料理人が作るのが見える形式のお店が好きだ。あのプロの手際としか言いようがない見事な手さばきを鑑賞しながら、料理が出されるのを待つ時間も楽しい。もちろん、その料理が目の前に出され、口に運び下で味わい、胃袋が満足を伝える瞬間は悦楽の境地である。
食は人生の楽しみだと、つくづく思いますね。
しかし言われてみますと、フレンチもイタリアンも懐石も中華も、調理場が見えないレストランデしか食べたことありません。
探して食べにいってみます。