トムよりハックがアメリカでは有名だという。
率直に言って私には理解しがたかった。私には明らかに「トム・ソーヤの冒険」のほうが読み物としては面白いと考えていたからだ。
だが、アメリカ文学界においては評価は逆転する。アメリカ文学界の泰斗であるヘミングウェイは断言する。「ハックルベリイ・フィンの冒険以前にアメリカ文学は存在しない」と。
ヘミングウェイが優れた作家であることは認めるが、私にはこの発言は理解しがたかった。どう読んだってトムソーヤの方が面白いぞ。
私がその意味に気が付いたのは30代を過ぎてからだ。文学とは、単に審美的な視点による文章の価値で示すわけではない。文学は現実と理想の狭間での相剋を抉り出すものであり、人が気が付かねばならぬものを告発し描きだす。
単に美しい、楽しいといった面だけでなく、醜悪さや哀しさをも照らし出すのが文学としての価値なのだと私は理解している。
だからこそ、トムよりハックなのだろう。
おそらく40年ぶりぐらいの再読なのだが、改めて読むと今だったら書けないような黒人差別、黒人蔑視の表現があふれている。だが、この差別、蔑視があるからこそ、この作品がアメリカ文学の嚆矢足り得る資格があるのだと、今にして分かる。
自由を掲げながら黒人奴隷を数多く有し、民主主義を掲げながら平等に反する差別がありふれた国、それがアメリカ。その矛盾と相剋を直視せずして、なにがアメリカ文学なのか。
ただね、私的に楽しめるのはやっぱりトムだ。野生児といっていいハックの冒険は、破天荒で楽しいが、トムの悪賢さ、機転の素早さなどから単純にエンターテイメントとして楽しめるのはトムだと思う。
っつうか、ハック、野生児過ぎるだろう。まァ、ハックの視点からの黒人差別の実態は、今回再読してはじめて痛感しましたけどね。その意味で、ようやくヘミングウェイの言いたいことが分かったのは大きな成果だったと思います。
根が楽観的な私だが、将来を考えるといささか悲観的にならざるを得ない。
21世紀をむかえた現在、予測されるのは石油資源の枯渇と人口の増大だ。さらに付け加えるのならば、アメリカ・ドルという世界交易の基軸通貨の失墜だと私は考えている。
まず石油だが、中国やインドネシアの経済成長に伴い消費量は拡大する一方なのに、埋蔵される石油は減少する一方だ。はっきり断言しますが、石油を代替する資源はありません。燃やすだけなら天然ガスや石炭でも代替できますが、プラスティックをはじめ石油化学製品を代替する資源は未だ見つからない。
更に一言付け加えれば、今やたらと宣伝されているシェールガスですが、これとて一時的な存在に過ぎず、海中に大量に眠るメタンハイドレードよりは実用化が早いだけ。その程度の資源に過ぎません。
次に人口の増大。これも21世紀中に100億突破が迫っている。この膨大な人口を養うだけの食糧と水を供給することは出来ない。凄まじい食料格差、水格差が生まれ、結果的に地域紛争が拡大する。これは援助とか助け合いなんて生ぬるい手立てでは対応できない。
なぜなら食料と水は命を支えるからだ。自ら生きるため、愛する家族を守るため、武器を取って戦い、水と食料を奪う。これは生物の本能に基づく行為であり、戦争根絶とか平和を愛するなんてお題目では抑えられない。
ただし、この紛争はアフリカを中心に第三世界で起こる。先進国では他人事になるため、なおさら加速度的に状況は悪化するでしょう。世界の警察を気取るアメリカでさえ、ソマリア以降アフリカには係りたくないと思っている。
そして最後にアメリカ・ドルだ。ユーロは既に失墜しつつあり、ユーロの解体さえ予測されてしかるべき状態にある。日本円は基本的にドルとリンクが強すぎて、本格的にドルが失墜すれば、円も共倒れ関係にある。いずれにせよ、ドルに代わり世界通貨の基軸となりうる通貨は未だ存在しない。
現在アメリカ政府にとって最大の懸念事項は、予算不足である。これ以上借金を増やすことができない(財政の壁ってやつだ)ために、軍事予算から公共福祉予算に至るまで、至る所で予算切りを行って緊縮財政策をとっている。
これは誰が大統領になろうが、長期的には変わらない。なぜなら欧米文明の退潮は既に歴史の流れとして確定している。これはヨーロッパも同様であり、欧米と同じ歴史的進展を共にしてきた日本も、この長期的衰退の流れに含まれている。
ただしアメリカだけは、この歴史的衰退の流れから抜け出る可能性を秘めている。ただし、そのためにはアメリカが大きく変質しなければならない。少なくても白人が多数派の座を追われ、英語さえも少数派の言語に替わる時、アメリカは新生アメリカーナとして再生する可能性を持っている。
これは歴史上、一度しかない大変質でもある。すなわち古代文明の牽引車でもあったオリエントが衰退した時、突如砂漠から現れてオリエントを一新したカリスマ指導者マホメットによるイスラム革命である。
イスラム以前と以後では、まるで違った文明の相をオリエントはみせる。これが人類史上、唯一といって良く、衰退する流れから再生した実例なのだ。
なお一応触れておくと、シナの中華文明は決して連続した文明ではない。漢民族中心の中華文明は三国時代から西晋で終焉し、その後は異民族がシナの地に流れ込み、征服王朝としてシナの文化を大きく変質させている。この変質は断続的に、時には中断を挟んで行われていたため全体像を把握しずらい。
だが、はっきり断言できるのだが、既に中原に栄えた中華文明は滅び、文明の中心地は長江南部に移行している。ただし現・北京政府は北方出身者の軍事力を元に築かれたため、その首都はかつての蛮族の地・北京にある。
したがって今の北京政府内部の権力闘争は、南方の経済実権派と、北の軍幹部との間で繰り広げられる。今でも最新の軍事装備は北方軍から配備されるのが、その証拠であるが、最近は南方軍がその経済力を武器に勢いを増している。シナ海軍の空母保有計画がその一例だと私は考えている。
皮肉な見方だが、漢民族による中華文明は滅び、異民族の混入により変質したからこそ中華文明は生き延びた。生き延びはしたが、停滞した社会構造は昔と変わらずであるからこそ、中華文明は昔と変わらずに見える。停滞し遅れた文明の地であったからこそ、経済発展を遂げる余地があった。
なお経済発展著しいシナではあるが、シナが欧米文明に替わって世界の枢軸となることは考えにくい。なぜなら、世界が模範とし、憧れとし、目標とするような新しいものは何一つない。昔と変わらず停滞した地だからこそ発展の余地があった。ただそれだけなのだ。
むしろ東南アジアの華僑勢力のほうが潜在力は高いと私は考えている。欧米の文化を吸収する一方で、アジアの伝統社会の基盤を残している東南アジアには、新しい文明が育つ余地が十分あるとみえるからだ。ただ、政治的に統一されたシンボルに欠けるが故にまとまりづらい。ゆえに可能性あれども現実的ではない。
もっとも世界的にみれば、次なる本命は南米だとする意見も強い。私自身はアメリカのラテン化と関連しての南米の躍進の可能性を検討すべきだと考えている。もっとも、そんな世界的な潮流の大変化は、早くて今世紀末、多分22世紀だろうと思っている。
ところが、ここにきて全てをひっくり返すニュースが入ってきた。それは寒冷化である。
すなわち太陽の活動に変化の兆しがあると、天文学者らが報告するようになってきたからだ。地球の大気は、太陽からの放射熱により温められる。このエネルギーに比べれば、二酸化炭素による温暖化なんて小さなものだ。太陽あっての緑の地球なのだ。
太陽からの放射熱に小さな揺らぎが生じただけで、地球は簡単に氷河期に突入する。事実、17世紀に地球を襲った小氷河期ともいえる寒冷期は、太陽からの放射熱がわずかに減少したことが原因だとされる。
ここ最近は猫も杓子も地球温暖化を叫んでいたので、今さら寒冷化?と思われるかもしれないが、私が10代前後にはむしろ寒冷化のほうが浮黷轤黷トいた。有史以来、人類を襲う様々な天変地異のうち寒冷化による飢饉ほど恐ろしいものはなかった。
むしろ温暖化は、農作物をはじめ植物を大いに繁茂させて、その結果として動物の大型化など様々な恩恵を地上の生き物に与えてきた。2億年以上繁栄した恐竜たちが最も栄えたのは、今よりはるかに温暖化が進んだ時代であった。
なにより我々、現生人類が今日の繁栄を築いた出発点は、一万年前の氷河期の終了であった。だからこそ、寒冷化につながるニュースは恐ろしい。
もし仮に氷河期が再び訪れたのならば、果たして我々人類は生き残ることができるのか。私はかなり懐疑的である。人類の文明が滅んで、その地位を奪い取る新たな生物が登場する進化のドラマが繰り広げられるかもしれない。
いずれにせよ、特定のグループが広めたと思われる地球温暖化説よりも、天文科学者らが警鐘する太陽活動の変化の報に私の関心は向いているのは確かです。
私が銀座と言う街で働いて十数年、常に美味しいものを食べ歩いてきた。東に美味しいステーキありと聞けば仕事をさぼってでも駆けつけ、西に繊細なお寿司があれと聞けば銀行の残高も気にせずに飛び込む。
・・・嘘です。実際はデパ地下のお弁当を愛し、仕事しながら食べれるオニギリとサンドイッチを常食する。まったくもって美食とは縁遠い食生活を送っている。
だいたい、美味しい食事とは胃袋をいっぱいにするものだと思い込んで育った私である。味覚を胃袋で測っていたと言われても仕方ない食いしん坊である。美食家とは程遠いのは間違いない。
ただし、母の名誉のために云っておくと、家庭での食事が貧困であったわけではない。少なくても不味い食事ではなかったし、それどころか私はいつも腹いっぱい食べていた。ただ、妹たちが食べ残したものを私が食べざるを得なかったのも事実であり、好きなものだけ食べていた訳ではない。
その反動かもしれないが、一人暮らしをするようになってからは、自分の好きなものだけを調理することに固執するようになった。基本的には、一食につき最低二皿以上の品が並ぶように料理をする。だいたいが、肉と野菜、魚と野菜の組み合わせが中心となる。
ただし、若干量が多いと思う。このあたりが一人暮らしの我が侭ぶりで、肉なんて二人分ぐらいの分量を一回に食べる。一人暮らしのわりに食費がかさむのは、このあたりに原因がある。
もっとも減塩には30年来気遣ってきたし、今年の心筋梗塞以来、脂身やコレステロールにも配慮している。多少の制限はあれども、まだ十分好きなものを食べれるのだから幸せだと思う。
それでもだ、やっぱり十代後半の頃の何でも沢山、好き放題に食べれたあの頃を懐かしむ気持ちは薄れない。
だからだろうか、表題の漫画に出てくる食欲魔人たち(?)に対する共感が否めない。食べている時の幸福感は素晴らしいと感じ入ってしまう。食事を美味しく食べられることって、人生が幸福であるべき第一要素ではないかとさえ思ってしまう。
ちなみにカーラ教授の食欲魔人シリーズは他にもあるが、私はこれが一番好き。やっぱり美味しい食事あってこその人生ですぜ。
川原泉の漫画は少女漫画のカテゴリーで間違いないのだけれど、なぜか恋愛が必ずしも中心テーマにこないので、男性にも読みやすいと思う。っつうか、このだらけっぷりというか、脱力モードは男女問わず楽しめると思うので、未読の方がいらしたら一度はチャレンジして欲しいです。
ブラジルの凄さよりも、日本のレベルを思い知らされたことが悔しい。
日曜日の早朝に行われたコンフェデレーション杯の初戦である日本対ブラジル戦は、静岡にある某健康ランドの大画面TVで観ていた。サッカーどころである静岡だけに、老若男女問わずサッカー人気は高いだけに、大広間は朝4時にもかかわらず一杯だった。
試合開始直後のネイマールのミドルシュートの凄まじさには、悲鳴よりも感嘆の声のほうが大きかった。それでもまだ日本の反撃に対する期待も高まるばかりで、大広間は声援の声が喧しいほどだ。
しかし、試合が進むにつれて溜息と諦めの空気が漂い始めた。サッカーどころの静岡だけに、皆サッカーに関しては目が肥えている。ヨーロッパの強豪相手でもそこそこ通じるはずの日本の特徴である俊敏さが通用しないのだ。
ブラジルも日本を研究して対策を練ってきたことが良く分かる試合でもあった。本田と香川には特に厳しく、ボールを持てばあのブラジルが二人で囲んで自由にプレーさせない。
かろうじて本田はボールを持てたが、それでも短時間が精一杯であった。香川に至ってはボールを持つ以前の段階で消されていたため、試合中その姿がTV画面に映ることさえ稀な始末である。
老練な遠藤でさえ自由にパスを出すことが出来ず、それどころかボールを奪われないようにすることで必死な有様であった。むしろ守備の場面で目立つのだから、日本が攻撃する時間が少ないのも当然であった。
一年前にもブラジルと欧州で試合をしており0―4で負けている。今回が0―3だからといって、前回よりも進歩があるなんて感じた人はほとんどいないと思う。それぐらい格差があった。
一応書いておくと、ブラジルチーム、まだチームつくりの途上であり、前評判は決して芳しくない。開催国ゆえに予選免除であることが、かえってチームつくりを難しくしている。海外組と国内組との合同の練習時間を作るのに難儀しているほどである。だからこそ監督を交替させたのだろう。
そのブラジルに完敗なのだ。
私としては、この敗戦を機にアジア・モードから離れ、世界相手に戦うための出発点として欲しい。前回の南ア大会で、オカダイズムに拘ったサッカーが世界に通用しないと分かったのは、大会直前であった。そこから開き直って現実を直視し、守備偏重の無様なサッカーで予選突破したのであった。
ザック・ジャパンはおそらく今回のコンフェデでは大敗しての予選敗退であろう。相手が強すぎるのに、未だにアジア相手の意識が抜け切れないからこそ、中途半端な守備と勇気のない攻撃しか出来なかった。
勝てた試合は自信を貰えるが、負けた試合からは教訓を得ることが出来る。今大会は日本代表にとって厳しい結果となるはずだが、俯くことなく未来を見据えて敗北を糧に成長して欲しいと思います。
これは市場経済である以上、当たり前のことである。人が呼吸することなく生きられないように、市場経済では常に価格は変動する。それは必然である以上に、当然であり、むしろ市場価格が動かないほうがオカシイ。
市場価格が動かないということは、寡占企業による市場支配が完成していたり、価格カルテルが結ばれているような不公正がある場合に限られるはずだ。さらにもう一つ考えられるのは、景気が大幅に停滞していて市場価格が動けないケースであろう。
そう考えれば、現在東京株式市場が大幅な乱高下を繰り返していることは、市場経済としては自然なことで、むしろ活気があると評しても良いと思う。
ところがここ最近の市場の乱高下をみて、アベノミクスは失敗したと論じるメディアがある。大まかに分けてデフレ政策維持派と、自公政権批判派に分かれる。もちろん、双方にまたがる論者もいるし、単なる安倍嫌いもいる。
私自身は、現状では単なる期待の顕われでしかないアベノミクスを疑いの目で見てはいるが、今回の市場の乱高下をもってそれを失敗と判じてたりはしない。景気回復の兆しは感じられるが、それが数値で出てくるのは今年後半だろうと考えているからだ。
そもそも異次元の金融緩和とか、アベノミクスとかの言葉ばかりが飛び交うばかりで、実態経済に大きな影響を与えるような大きな金の動きはない。平成25年度予算が実行されても、それが結果として数値に出るには半年以上かかるのは常識である。
むしろ、市場価格が上がるのも下がるのも鈍かった民主党政権下での3年間を思えば、今の日本経済はよっぽど活気がある。ドルとユーロがひたすら紙幣を刷りまくっていた5年間を思えば、円の価値はようやく実態に近い数値に近づいただけのこと。
それなのに何もせずに現状維持(不況の固定化でもある)に固執した前・白川日銀と財務省の無為無策と比べれば、今の安倍政権はよっぽどマシだと私は思う。ただし景気回復の期待はあれど、現時点ではその兆しはまだまだ小さいのも事実。
どんなに正しいと確信しようが、世の中結果が全てだ。安倍政権が本当に景気回復を果たせるかどうかは、今年秋以降の数字でしか判断できないと思います。
それなのに、現時点でアベノミクスを失敗だと主張するのは、まず初めに安倍政権ではダメだとの結論ありきだからこそだと思わざるを得ません。