漱石の苦しみは、猫により解放されたといったら大げさであろうか。
明治維新により、日本は鎖国を止めて、西欧を受け入れた。
受け入れた!?
それは決して簡単なことではない。新しい技術、新しい知識、新しい言語、新しい食生活。過去とどう折り合えば良いのか。武力により強圧的に受け入れざるを得ないのなら、相応に受け入れるふりをすればいい。アジア、アフリカの多くの植民地は、そうやって近代化を受け入れたふりをした。
しかし、日本は違う。黒船の強大な武力に圧倒されつつも、決して負けを認めず、自らの意思で西欧に門戸を開いた。自らの意思で学び、自らの意思で受け入れた。そうして刀は銃器へ変り、手作業から火力動力による工場生産へと変え、国内で使うのではなく、外貨を稼ぐための新しい経済を学んだ。
植民地として近代化の荒波に呑まれた他のアジア、アフリカ諸国は、近代化をただ受け入れたふりをしていただけだ。しかし、自らの意思で受け入れた日本は、欧米の支配下に堕ちないため、欧米に追い付くことを目指した。
ただ、近代を受け入れるふりをするのではなく、近代を自ら咀嚼して血肉とする必然性を理解していた。それは、現代を生きる我々には想像を絶するほどの苦しみに満ちた道程であった。
真似するだけではなく、その背後にある近代化の土壌を理解することから始めた。科学的思考を理解し、論理に基づく考察を体得し、その上で日本独自の近代化を為してこそ、真の近代化といえることを、明治の人たちは分かっていた。
それは政治であり、軍事であり、経済でもあり、そして文化の分野でも、断固たる意志をもってして近代化の受容が推し進められた。最初は翻訳から始まり、そこで異なる文化間での共通概念の構築が幾度となく論争された。
日本は、ここに至り始めて文学に遭遇する。日本にも文芸はあったが、それはあまりに当たり前のことであった為、文学としての考察に欠けていた。近代化によりもたらされた欧米文学に遭遇した日本の文人たちは、戸惑い、困惑し、混乱に陥った。
膨大な量の欧米文学を読み、翻訳し、理解に努め、圧倒されつつも、彼ら日本の知識人たちは何が必要かを模索した。その一人が若き日の夏目漱石である。英語に堪能であるとされた漱石ではあるが、英米文学の質と量に圧倒され、精神的に追い詰められた。
それは神経衰弱となるほどの苦しみであったが、克服するためいロンドンに留学し、ただひたすらに積読を重ねる日々でさえ、漱石を苦しみから救うことはなかった。神経衰弱が悪化して帰国して静かな暮らしをしていても、その苦しみは漱石を痛めつけ、遂には妻や子供たちに当たり散らす日々。
そんな夏目家に棲みついた一匹の黒猫が、漱石を変えた。気まぐれで、取り留めもない猫の他愛無いしぐさが、漱石の荒んだ気持ちを柔らかく包み込んだ。猫を飼うことで漱石に心の落ち着きが取り戻された。今風に云うなら、アニマル・セラピーなのだろう。
そして処女作「吾輩は猫である」が書かれた。
欧米からもたらされた膨大な英米文学の重みに耐えかね、苦しみもがいた末にたどり着いたのが、この作品である。良く読むと、随所に欧米の名作からの引用、パロディなどが盛り込まれているが、市井の読者はそんなことは気が付きもせず、ただ素直にこの作品を楽しんだ。
欧米文学のコピーでもなければ、従来の日本の伝統的な読み物でもない。猫を通じて人の心の機微を伺い、猫を鏡として世相を映す。津波のように押し寄せる近代化の荒波を制したのは、日本的な静かな考察であった。
森鴎外と並ぶ明治の文豪、夏目漱石の作家としてのスタートは、猫による癒しから生まれたといったら言い過ぎであろうか。
家族が住む家の中での失くしものは、案外と厄介な問題となる。
家族の誰かが私の大切なものを盗んだのではないか。そんな疑いが、小さな棘となって家族の間の信頼を傷つける。温かい団らんの場であり、厳しい世間の風からの安全な避難地である我が家の雰囲気をぶち壊すことになりかねない。
「私の大事なお指輪を、勝手に持ち出したのは誰!」そんな一言が、家族の一人から発せられたなら、たちまち家族の間で諍いが起こる。日ごろ親しいだけに、理不尽な怒りに曝されると、抑えていたものが爆発することもある。
だからこそ、小人が必要であった。小人が借りていった、そうすることで、家族の間での軋轢を回避できる。真実を追求するよりも、家族の間が親密であることのほうが大切だとの想いから、小人は作りだされた。
日本だと妖怪の仕業なのだが、ヨーロッパでは小人の仕業となる。それが表題の映画の原作となったメアリー・ノートンの「床下の小人たち」である。残念ながら原作はまだ読んだことはない。
その原作のアニメ化を30年以上狙っていたのがスタジオ・ジブリ。長年の想いを込めた映画化だけに、その出来は数あるジブリ・アニメでも上出来の部類ではないかと思う。
DVDでの鑑賞でしたが十分楽しめる内容でした。近代は、なんでもかんでも、この世のあらゆる事象を論理的に、科学的に解明しようとしました。しかし、それは必ずしも人を幸せにするとは限らないようです。
真実を知らずにいたほうが幸せなことって確実にあると思います。その処方箋が小人であり、妖怪でした。古来からの人の叡智って、あんがい馬鹿に出来ないと思いますよ。
さて、これを機に原作を読んでみたくなりました。さて、図書館に行って探してみますかね。
何故に、これほど没落したのだろうか。
現在、債務不履行国となってしまったギリシャである。私は国際金融にそれほど詳しくないので、今後の動向に意見できるほどの見識を持ち合わせていない。
ただ、分かるのはEUROという仕組みは、かなり不完全であることだ。もともと超大国アメリカとアジアからの新興国に押されることに対する恐怖心ゆえに団結して作られた組織だけに、先進国ヨーロッパという面子が優先しがちであった。
それだけに、ドルに匹敵する規模を持つ国際通貨を作るという目的が先行し過ぎて、通貨の基盤である経済の基礎体力が異なる国々での共通通貨ユーロを無理やりに作ったことが大きな要因だと思う。
かつて古代オリエント社会にその名を響かせた栄光あるギリシャは、何故にこれほど没落したのか。同じ古代の覇者たちのなかでも、イタリア、ペルシャ、トルコなどは今も相応の地位を築いている。
それに対し、ギリシャの低迷ぶりは2000年近い。あるのは、古代ギリシャの遺跡だけであり、あれだけ哲学、文芸、数学などの面で優れた業績を残した痕跡すら見つけるのは至難の業だ。
その原因を探ると、やはりアレキサンダー大王に行き着いてしまう。ギリシャ北西の片田舎の扱いであったマケドニアの王により支配されたギリシャは、アレキサンダー大王に連れられてオリエント各地を巡る戦いの旅に随行することとなる。
征服地において、アレキサンダーは随行した兵士たちを現地の女性と婚姻させて、その支配を確固たるものとし、大量のギリシャ人、ペルシャ人らが各地で混血を繰り返し、アレキサンダーの死後も融合した新たな文化の担い手となり、世界史に名を残すヘレニズム文化が花開く。
人口の多いペルシャはともかく、決して人口大国ではなかったギリシャにとって、若い男性を大量に兵隊に取られ、その兵隊たちが帰国せずにオリエント各地で婚姻して現地に溶け込んでしまったことは、大変な問題となった。
高度な教育と、洗練された社会風習を持つ古代ギリシャにとって、次世代の社会の中核を担うはずであった人材を大量に失ったことで、国力は大きく減退した。その後も他民族の流入により、人口はかなり回復されたが、文化的水準が元に戻ることはなかった。
ユーロから求められた緊縮財政に対する受入を理解は出来ても、国民の前で表明できなかった愚かで卑怯なギリシャ政府は、国民投票という逃げを打った。過大な借財の返済よりも、目先の吾が身可愛さを優先するのが人の性。
決断すべき政治が、その決断から逃げての結果が、ギリシャ国民の儚い虚栄心を満足させるだけの緊縮財政拒否である。この先のギリシャがどのような苦難の道を歩むかは不明だが、真綿で首を絞められるような苦渋の未来が待っていることは確かだと思う。
幸か不幸か、ギリシャは軍事的には小国であるため、直接の戦乱の可能性は低い。しかし、資本主義社会に対する強烈な拒否反応が根付いてしまい、それが欧州全体に波及する可能性は高い。
すなわち、ヨーロッパで生まれ育った近代の象徴である市場経済と資本主義の終わりの始まりとなるかもしれない。これはギリシャだけの問題ではない。ベルリンの壁が崩壊し、遅れた東欧国家へとつぎ込まれた膨大な資金の多くが、焦げ付きの可能性を秘めている。
いくら投資しても、それが再生産に回されずに、過剰な消費すなわち浪費に使われてしまい、残ったのは莫大な対外債務だけ。いくらカネを注ぎ込んでも、決して近代化出来なかったアフリカ諸国と同様の失敗がみられる。
これがアジアだと、投資が社会資本の構築と経済の再生に使われて、新興経済国として躍進に貢献する場合もある。ギリシャとの違いは何かといえば、やはり人だと思う。
蓄積んされた人智の継承が根付いているアジアと、社会の中核となる人材を喪失したギリシャとの違いは、残酷なまでの結果を生み出してしまったと思うのです。
アメリカ人って、本当に車が好きなんだと思う。
カーアクションが売りの映画は数多ある。ハリウッド映画は、このカーアクション映画を良く作る。もちろんヨーロッパだって、シナだってカーアクションの出来が良い映画を幾つも作っている。
だが、車に対する愛着は、アメリカ映画が一番ではないかと思うことがままある。ただ、その愛着の仕方が違う。日本だとマメに洗車して、ワックスをかけて、社内を掃除する。土足を許さず、車はいつも奇麗にしておくのが、日本流ではないかと思う。
土足禁止は如何なものかと思うが、車は第二の家ではないかと思わせるのが、日本人の車への愛着ではないかと思うことは多い。でも、これって多分、日本だけのような気がする。
アメリカでは、車は徹底して移動の手段である。外見がボロボロでも、走ればいい。もちろん、洗車、ワックスばりばりの綺麗な外見の高級車もある。しかし、街を走る車の大半は、埃とドロで薄汚れている。多少の汚れなんて気にもかけないのがアメリカ流。
ただし、手入れは十分する。アメリカの人は、車のメンテナンスは自分でやることが多い。タイヤ交換だって、オイル交換だって自分でやる。走るための機能のチェックは自分で確認してこそ安心するらしい。
多少、壊れても自分で直せるものなら自分でやる。ドアミラーやランプの故障くらいは気にしない。なぜなら走るのに支障がないからだ。走るのに差し障ると分かって初めて自動車修理工場に持ち込む。
持ち込んでも、全部任せるのではなく、自分で出来る部分は工具などを借りて直してしまう。交換すべき部品が高いと思うと、自分で車のスクラップ置き場へ行って、格安で入手してしまう。とにかく、出来るなら自分ですべて面唐ンるのがアメリカ流。だから自宅にガレージは欠かせない。
思うに、この感覚は馬を世話することの延長ではないかと思う。かつて馬こそが、人間の乗る最も汎用性の高い移動手段であった。実際、これだけ自動車が普及し、道路が整備された今日でもアメリカの田舎に行けば、馬が日常的に使われている。農業国家アメリカならではだ。
その馬の生まれ変わった姿が自動車なのだと感じることは多い。古代の騎馬騎士たちは、人馬一体となって戦場を疾駆したというが、その感覚が現代のアメリカでも生きているように思えてならない。
特に表題の映画を観るとそう思う。最初はマイナーな映画であったように思うが、人気が出てシリーズ化し、今回で7作目である。内容は敢えて語るまい。ただね、車を空に飛ばしなさんな。普通は航空機で輸送だろうが、その車を空に飛ばしちゃうあたり、正直理解できないぞ。
まァ、面白いことは面白い。最後がちょっとシンミリしちゃいますけどね。
口に出して良いことと悪いことの区別もつかないのか。
自民党の若手グループが、作家の百田氏を呼んでの勉強会で、新安保法制に批判的なマスコミに圧力をかけろとか、異常な沖縄マスコミを潰せなどと発言したことが物議を醸している。
世の中、心の中で思っても、口に出すべきではないことがあることが分からない未熟な人間が、この国の国会議員、しかも与党議員だというから、情けなくなる。
しかも、これだけ問題になっても、まだ同様の発言をしている。幼稚な確信犯であり、未熟な社会見識しか持ち合わせておらず、稚拙な政治手腕しか期待できないことを露呈したことに気が付けないおバカちゃんである。
日本の新聞や雑誌、TVなどが左派勢力の強い影響下にあるのは事実である。ただし、読売新聞や産経新聞などは、その対抗勢力的存在でもあり、マスコミが左派一色である訳ではない。
現実問題、いくら左派勢力が反日反米的な記事を書いても、読者がそれについてこない。社会党は消滅し、期待の星であった民社党は、マスコミの熱烈な支援にも関わらず失政を繰り返して没落。社民党は在日政党であることが露呈し、応援しずらい。
ならば、与党自民党の失点を声だかに叫ぶこと、平和な日本を求める左派勢力の唯一できること。とにかく反対、どうでも反対、反対こそが我らの存在価値。そんなマスコミを鬱陶しく思う若手の自民党政治家が、ものの見事に釣れた。
もちろん、野党も大喜びである。これでしばらくは国会が空転することになる。
馬鹿らしくて新聞読む気が失せる。いかに野党が騒ごうと、新安保法制は多数決により可決する。アメリカが求める新安全保障体制に、日本は予定通り組み込まれる。ただ、それだけのこと。
日本のマスコミが現実を直視せずに、脳内お花畑で平和の舞に見呆けているのは事実だ。また、沖縄のマスコミ2社が異常なのは、これまた事実である。
だが、左派マスコミがのきなみ経営的に苦しくなっている現状を支援する馬鹿が、自民党にいるとは思わなかった。広告を減らせば、マスコミは経営危機に陥るのは確かだ。しかし、わざわざその経営的に低迷している沖縄の二社に注目が集まり、支援する気を起こさせるような馬鹿な発言をするのだから、この確信犯的失言者は、大馬鹿ものである。
本当に優秀な政治家は、こんなバカな手法はとらない。如何にも合法的で、しかも収益法人でもあるマスコミ経営陣が断りきれないような好条件を呈示してからめ捕る。
格安で都心に本社敷地を手に入れた某新聞社とか、ラジオ放送の許認可を餌にして釣った某TV局なんぞは、その典型である。おかげで政治家個人の名前を外した利益供与事件を報じさせたり、霞が関のお役所が、強調して報じて欲しい部分と、そうでない部分を区別した報道なんかがなされている。
政治によるマスコミのコントロールは、決して不可能ではないし、過去に何度も行われている。反政府の姿勢こそが、マスコミの矜持だと思い込んでいるおバカな記者を、過去何度となく籠絡している。
沖縄のマスコミを破綻に追い込むことは、実はそう難しいことではない。彼らが過去に如何なる異常な報道をしてきたか、その結果がどうなっているのかを堂々明らかにすればいい。
それだけで沖縄の二社の報道価値は格段に下がる。ただし、日本のマスコミはそれを避けてきた。あの異常さを全国に報じることは、さすがに出来かねた。事実を明らかにするだけで、物事の本質、真意がわかることがある。
ベルリンの壁が崩壊する以前に、あれほど光り輝いていた社会主義社会の理想は、崩壊した壁から見えた醜悪な現実の前に、無様に色褪せた。非難したり、圧力をかける必要なんてなかった。ただ、事実を堂々公開しただけ。それだけで社会主義の理想は潰えた。
天網恢恢疎にして漏らさず、だと思う。