何時の頃からか、私は読売巨人軍のファンであることを辞めた。
子供の頃、野球といえば、巨人しかありえなかった。巨人しか知らなかった。だから、小学校の頃、自分で野球をやるようになると、当然に巨人ファンであった。
当時は川上監督の下でV9を達成し、長島が引退し、やがて監督になった頃であった。野球部にこそ入らなかったが、自分でも放課後、公園などで野球をやっていると自然に気が付くことがある。
なんだ、巨人の野球って、それほどたいしかことないじゃん。もちろん、他のプロチームと比較しての話だが、もはや巨人が野球そのものでは特別ではないと分かってしまった。
王は既に全盛期を終えており、張本も同様であり、柴田は昔ほど走れず、堀内のカーブはもはや往年の威力はない。川上野球のレギュラー陣が既にベテランの域に達しており、昔の輝きはなかった。
私の関心は既に高校野球に移っており、そのスピーディで、メリハリの効いたプレーがひどく新鮮に思えた。すると、巨人の野球がくすんで見えてしまったのだ。
しかし、私の周囲の大人たちは、相変わらず巨人一辺唐ナあり続けた。巨人が勝った日の夜は賑やかで、その華やかさは翌日にまで続くほどであった。でも、負けた日の夜と、翌朝の機嫌の悪さは、私を閉口させた。
そのうちに気が付いた。巨人軍の勝敗に一喜一憂する大人たちは、自らの人生の鬱屈を、巨人軍に当てはめていることに。安いアパートに、沢山の家族と暮らし、余裕のない人生を常勝巨人軍に置き換えて、日々の鬱屈を晴らしている。
だからこそ、吾が身のことのように、巨人軍の勝ち負けに大騒ぎしているのだと。そのことに気が付いてからは、もう素直に巨人軍を応援する気になれなくなった。純粋にプロ野球選手の技量の高いプレーには拍手を送ったが、単なる勝ち負けに便乗するかのような楽しみ方はしなくなった。
後年、野球よりもサッカーを楽しむようになっても、私の基本的なプロスポーツの楽しみ方に変わりはなかった。特定のチームを応援するよりも、優れたプレー、白熱した試合に拍手を送るような楽しみ方となった。
楽しみ方は自由だと思うので、特定のチームを応援し、その勝敗に一喜一憂する楽しみ方を否定したりはしない。ただ、あのような楽しみ方をする人が多いのには、いささか閉口している。
先日のサッカー日本代表のアウェーでのカンボジア戦がそうであった。ホームでは大勝したが、今回はアウェイである。高温多湿であり、不慣れな人工芝に使い慣れぬヴェトナム製のボール。
なによりも母国の観客の前で無様な試合は見せられないとの思いから、奮闘してくるのは目に見えている。私は相当な苦戦を予想していた。かつての弱かったころの日本だって、徹底的に守備に徹すれば、強豪国にも大敗は避けられた。
おまけにハリルホジッチ監督は、まだ試合に出場させたことがない選手を実戦に使って見たかったようで、本田や長谷部を先発させずに、新しいメンバーで試合に臨んだ。これならば苦戦は当然で、引分の可能性もあった。
おかげで前半は無得点であり、相手のオウンゴールと、終了ギリギリでの本田のヘディングで、かろうじての2-Oでの勝利であった。おかげでマスコミやら、サッカー評論家やらの批判が再燃している。物足りない結果に不満を募らせたファンの批判も噴出しているようだ。
正直、あまり感心できない。
かつてサッカー弱小国であった日本を覚えている身としては、カンボジア代表選手の気持ちを察することが容易であった。とにかく徹底的に守る。攻めるのはカウンターだけで、後はひたすら密着マークして、相手の自由にさせない。
この当りが野球とは異なるところで、もし野球ならば簡単にコールド勝ちが出来たであろう。しかし、ことサッカーに関する限り、弱小国は勝ちを諦めて、徹底的に守備をすることで、負けない、あるいは大敗しない結果を出すことが可能だ。
カンボジアにとって、日本代表チームはあまりにレベルが高すぎて、勝利を望めるはずがないことは、みんなが分かっていた。だからこそ、徹底的に守り、負けないサッカーをすることで矜持を守った。
試合こそ0―2での敗戦だが、強豪である日本相手に大敗しなかった。そうならないために、カンボジアの選手たちは、足を引き攣らせながら、必死で走り、身体をぶつけ、ゴールを守った。
だからこそ、試合が終わった時、彼らは嬉しげに日本選手に駆け寄り、ユニフォームの交換をせがんだ。カンボジアの選手たちは、大敗しない戦いを出来たことに、十分満足していたのだ。
一方、日本選手だが、これははっきり言うが、選手たちは怪我を恐れていた。決して無理をしなかった。この試合が無理をする試合でないことを分かっていた。新しい選手たちとの連携を確認しているかのような試合ぶりであった。
だからこそ監督は怒ったのだろうと思うが、これには伏線があった。実はその前に、練習中ドイツ、ブンデスリーガで活躍している清武が練習中に骨折をしている。代表のレギュラーには誰もがなりたい、だからこそ練習といえども真剣勝負であるが、それでも怪我は嫌だ。
それゆえに前半戦は煮え切らぬ戦い方になったのだろう。もちろん母国の観衆の前での失点を避けたかったカンボジア選手の奮闘も一因ではある。幸い、後半に投入された柏木が、試合のリズムを変えたのと、前半頑張り過ぎたカンボジア選手の脚が止まったので、試合には勝つことができた。
私からすれば相応の結果であり、課題や問題点はあれども、多くの選手を投入して見極めようとしたハリルホジッチ監督の意図は明確だし、なおかつ勝っているのだから文句はない。
しかし、ホームでの試合同様の大勝を期待していたサポーターは不満たらたらである。私からすれば、アジア予選独特の困難さをまるで分っていない素人サポーターであり、かつての巨人軍の勝利を自分の人生に重ねていた近所のおじさんたちと同類である。
この試合はワールドカップの地方予選であり、勝ち点をとればいい。無理をする試合ではないし、今後を踏まえたテストの場としての活用まで出来れば、それで十分だ。
日本がワールドカップに出場できるようになって、既に十年以上がたつが、未だにサッカーの世界の事情が分からぬ人が多いのには閉口します。
いくら憲法で戦争放棄を高らかにうたおうと、戦争は日本を放棄してくれたりしない。
話せば分かることもある。しかし、分からないことが多いからこそ争いは絶えることはない。それが人類の歴史だ。
先週末の深夜のパリを襲った、ISSによるテロ攻撃は、数百人の犠牲者を出す大惨事となった。テロとは、単なる武装攻撃ではない。自らが正しいと信じる政治的信念が世の中に認められない場合に、その不満が武力による意思表示となる。
ISSの賛同者は、西欧的な価値観が自分たちを幸せにしないと確信し、イスラムの過去の栄光にすがることで、西欧に裏切られた傷心を癒し、当てのない不確定な未来を信仰で癒す人たちである。
にもかかわらず、ISSとの話し合いだの、日本が襲われるなどと、お気楽、間抜けな言動を弄するおバカを散見する。
話し合いというものは、同じ価値観を共有するからこそ有効なのであり、女性を性奴隷とし、人質の首切りを公開するような中世の価値観を信奉するISSとの話し合い、妥協はまず成立しない。それでも話し合いに固執するというなら、それは性奴隷を容認し、首切りに賛同すると、はっきり賛意を示すべきだ。
日本が襲われるというのは、ある意味当然であり、警戒すべきことである。日本国は、どう言い逃れしようと、現代に生きる近代国家であり、当然にISSとは異なる価値観を有する。
当然に同じ価値観を有する国々と連携すべきであり、事実、日本は西側先進国の代表的国家の一つである。政治面でも、経済面でも、そして軍事面でも西側先進国の側に立つ国である。
当然にISSとは敵対する側であり、いくら平和憲法だの、戦争の放棄だのと妄言を吐こうと、ISSのみならず世界中の国々は、日本が西側先進国の側であることを認識している。
断言するが、ISSとの平和的な共存はありえない。価値観が致命的に対立しているうえに、ISSは西側先進国のみならず、イスラム社会までをも敵に回している。
アメリカ軍と日本の軍隊に守られた安全な日本列島で、いくら平和を願う美辞麗句を並べようと、それは雑音でしかない。そのような妄言を自由に吐くことが出来ることを感謝すべきであろう。
まァ、あの手のいじけた平和原理主義者が、このような残酷な現実から目を逸らし続けることも分かってはいるのですがね。
少なくても孤独ではない。
シリーズ四作目となる人気作品だが、主役が交代している。似たような風貌だし、格闘技の素養十分であり、その意味では交代も納得である。
例によって、アウディの最新の車を駆使したカーアクションは爽快だし、楽しめる映画となっていることは間違いない。
ただ、一点どうしても気になったのが、今回登場した主人公の父親である。これは、これで魅力的な人物であり、従来の作品にはなかった味を提供していることも認める。
それでも、いささか容認しがたいと思ってしまうのは、前作までのステイサム演じる主人公が、常に孤独な男であったこととのからくる違和感である。今回の父と息子の微妙な関係が織りなす暖かい雰囲気が悪いとは云わない。
しかし、3作目までの主人公の持つ孤高の雰囲気をぶち壊された気がしてならない。そこが最後までひっかかった。正直言えば、4作目とせず、まったく別のタイトルで公開したほうが良かったと思う。
アクション映画として、それだけの魅力はあったと思うだけに、いささか残念に思ってしまいました。
いつもNo3だった男、それがプロレスラー木村健吾であった。
一番には成れないが、二番手にもならなかった。弱かった訳ではない。対抗戦などでは無類の強さを誇った。プロレスラーとしては痩身であったが、筋肉の突き方、バランスは素晴らしく、動きも素早い。
もちろんテクニックもあり、運動神経も良かった。木村健吾の必殺技、稲妻ラリアットは彼にしか出来ない高難易度を誇った。スタン・ハンセンの得意技であるウェスタン・ラリアットは、そのぶっとい腕を相手の咽喉仏に叩きつける。
ならば腕よりも太く、力も強い足のすねを相手ののど元に叩きつければイイとの発想で生まれた必殺技であった。高い飛翔力、タイミングを計る運動神経など条件は高く、木村健吾以外に使い手は現れなかった。
使い手が現れなかった、もう一つの理由は、この必殺技での名勝負が無かったことだ。新日本プロレス創生期からのプロレス歴を誇る木村健吾だが、如何ともしがたかったのが、地味であったことだ。
性格もプロレスラーらしからぬ温厚さで知られ、その控えめな性格と相まって、どうしても地味な扱いを受けるプロレスラーであった。でも、私は覚えている。新日本プロレスの全盛期、よくみれば必ず木村健吾がいたことに。
タッグでは坂口のパートナーであることが多かったが、巨漢の坂口とだと痩身の木村の小柄さが引き立ってしまう。やはりベストパートナーは藤波であったと思うが、皮肉なことに木村が一番ライバル心を燃やしたのがその藤波であった。
しかし、藤波には長州力というライバルがおり、名勝負数え歌と囃されるほどに人気であった。木村の出番はなかなか訪れなかった。その木村が一番光ったのは、旧UWF勢が出戻った時の対抗戦であったと思う。
私は、この対抗戦の時まで、木村の実力を低く見積もっていた。ところが、この対抗戦で木村は、今まで抑えていたものを爆発させるかのような実力を発揮した。正直驚いたが、彼がみせた実力は、見栄えのしない地味な技であることが多く、あまり観客を沸かせることは出来なかった。
しかし、この地味は技を使いこなせることこそ、実力派の証でもあった。今だから思うが、木村に足りなかったのは、他人を押しのけ、踏み潰してものし上がろうとする野心であった。
だが木村は人が良すぎたと思う。同じ釜の飯を食う同僚に対しては、どうしても非情に成り切れなかった。だから二番手にもなれず、三番手の男であった。そのかわり、海外、とりわけメキシコでは木村はその実力を思う存分発揮して、悪役レスラーとしてその名を響き渡らせた。
これは木村がメキシコプロレスのスタイルを嫌ったこと、メキシカンに対する親近感がなかったため、彼は躊躇うことなく、思う存分暴れることが出来たからだと云われている。
だが、日本のマットでその実力が全面的に出ることはなかった。いい人過ぎたプロレスラー、それが木村健吾であったと思うのです。
少し浮「と思っている。
シナの習主席のアメリカ訪問は散々であったようだ。どうしてもアメリカはシナを新しい覇権国として認めてくれない。仕方なく札束抱えてイギリスに行き、原発の安売りに成功したが、ここでも待遇はひどいものであった。普通、晩さん会において、トイレの入り口の前に主賓の席は置かないぞ。
あげくに日本は言う事を聞かないし、南コリアはふらついている。北コリアは危なっかしいし、台湾、ヴェトナムでは現地の民衆がまったく支持してくれない。
そしてアメリカ軍は、とうとう南沙諸島に設けた基地の領海侵犯どころか、領空侵犯までやらかしている。事実上、南沙諸島をシナの領土として認めない行為に等しい。
まさに習主席の外交は、まるで成功しなかったことを実証されてしまった。
このことを安易に喜んではいけない。シナ人は面子を重んじることでは世界屈指の頑固者であり、その面子は人の命よりも重い。超大国シナのトップが、その面子を丸潰しにされたのだ。
平静を装う習主席の胸中にどす黒い怨念が渦巻いていることは想像に難くない。
そして現在、世界経済を席巻したシナの経済状況は下降線の真っただ中にある。古今東西、内政の失敗を外交で補おうとするのは、政治家の本能に近い。内政問題を解決するのは至難の業であり、どうしても外資を大幅に導入する必要がある。
しかし、度重なる外国企業への排斥、有形無形の妨害などが知られてしまったため、進出する外資は激減である。だからこそ、シナの通貨を国際通貨として認めさせて、経済危機を乗り切る必要がある。いつまでも国際通貨であるドルに頼れない。
そのためには、IMFに国際通貨としての元を認めさせねばならない。しかしアメリカが首を縦に振りそうもない。まさに八方ふさがりの状態ににある。
私の考えだと、シナの政治家が外交活動に奔走している時こそ、国内政治が危ない状況にあることが多い。習主席は数多くの政敵を葬ってきたが、これだけが外交で失態を重ねると、反習政権派の国内勢力が勢いづくのは目に見えている。
なんとしても、国内をまとめ、面子を取り戻す必要がある。
近年、シナの世論をまとめる最大の方法は、反日であった。アメリカを堂々正面から叩くのは危ない。ロシアも同様だ。コリアでは役不足だ。やはり憎きリーベン(日本)こそ、最も便利な、格好の的である。
嫌な予測だけれど、近々再びシナ各地において反日暴動が起きる気がしています。