ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

X-MEN:アポカリプス

2016-08-22 13:31:00 | 映画

評価に困る作品だった。

一応、三部作の三作目の位置づけなのだが、前二作と、どう繋がるのか、上映中ついに思い出せなかった。そもそも、人類最初のミュータントであるアポカリプスを出してくる意味が分からなかった。

ちなみに、アャJリプスとは新約聖書の黙示録のことで、その内容は難解というよりも、抽象的に過ぎて、極めて分かりづらい。私がキリスト教徒として教会に顔を出していた頃、もっとも理解しづらかったのが黙示録でした。

現在の私の理解では、黙示録は聖書のありがたみを深めるためのスパイスだと、極めて乱暴な理解をしています。その程度で十分なのです。あれは脅しみたいなものですから。

私が脅しだと捉えているのは、欧米のキリスト教の下では、概ね黙示録は破滅とか終末を意味させるかのような使い方がされているからです。実際、この映画でも、アポカリプスはミュータントの最終兵器というか、ラスボス的な存在感を示しています。

でも、その割に、普通に人間たちに封じれてていたみたいですし、今回も・・・まァ、ネタばれになるから書きませんけどね。この手のSF活劇映画は、最後はハッピーエンドがお約束ですから、仕方ないといえば、仕方ないのですが、正直シナリオには不満が残ります。

でも、あの映像の迫力は観る価値あります。だから、観るのならば映画館で、それも3Dで観るほうが楽しめると思います。しかし、まァ、なんだって、あの場面でウルヴァリンを出すのかねぇ・・・

あれでは、三部作の三作目の意味がないように思うのですが、ウルヴァリン・ファン(日本は多いらしい)には嬉しいのでしょう。

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オリンピック放送への違和感

2016-08-19 12:47:00 | スポーツ

本当にオリンピックが報道したいのか?

日本人選手のメダル・ラッシュに沸くのは理解できる。それでも疑問に思わざるを得ないのが、日本のTV放送だ。

そりゃ、私だって日本人選手の活躍する映像は観たい。だけど、他の選手の映像だってみたい。たしかにウサイン・ボルトのような日本でも有名な選手の映像は流してくれる。

しかし、他の無名の海外選手の映像は、ほとんど放送されない。特にヒドイのが、日本人選手が銅メダルを取った時の、金、銀メダルを取った試合等の映像が極めて少ないことだ。

もしかしたら、放送権料の問題なのかもしれないが、日本人選手の試合だけ放送するのは、良くないと思う。日本人選手以上の成績をとったのが、如何なる選手で、どんな技量を発揮したのかを放送することも大事だと思う。

私の眼には、日本のマスコミはスポーツそのものよりも、日本人選手の活躍にのみ傾倒していると思える。分かる部分もあるが、あまりに過度に日本人中心に拘ると、世界の流れが見えなくなる。少なくても、金メダルをとった試合などは放送するべきだと思うぞ。

それと、どうしても不愉快なのは、例のスポーツキャスターとかいう輩である。

私が見たいのは、オリンピックに出場している選手たちであり、それを放送するアナウンサーやら解説者やらは音声だけで十分だ。ましてや知名度があるのだろうが、出場している訳でもないスポーツキャスターとやらを、やたらと画面に出すのは如何なものか。

ましてや、会場の雰囲気を伝えると称して、TV局の女子アナやら、スポーツキャスターやらをやたらと映す一方で、その会場で行われているはずの試合はダイジェスト放送。いったい何を放送したいのか疑われる。

私はこれが嫌で、あまりTVを観る気になれないでいる。幸か不幸か、夏休みで車を運転している時間にTVを見ているが、余計な場面が多過ぎて、不愉快になることが多い。

もう少し、まともなオリンピック放送をして頂きたいものである。

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インキュバス レイ・ラッセル

2016-08-18 18:15:00 | 

汝、姦淫することなかれ。

人間の三大本能といえば、食欲、睡眠欲、性欲だ。前二者はともかく、問題なのは性欲である。生殖と密接につながっている本能であり、種の持続という観点から非常に重要な本能であるはずだ。

性の悦楽なくして、人は出産のために励むのか。ある意味、非常に巧妙な仕組みだと思う。ところが、この性欲を「汝、姦淫することなかれ」と抑制することを言いだしたのが、古代のユダヤ教である。

もちろん、本来の趣獅ヘ、男女の性行は、正式な婚姻関係(ユダヤ教の戒律にのっとって)にある者同士のみであり、それ以外の性行は淫らなものとして禁じたのが実態だ。

当時のオリエント社会は、比較的性に関しては大らかであったようで、少数派のユダヤ教では多神教の社会に溶け込まないよう、必死で信者たちに戒律を守るようにとの必死の思いがあったものと考えられる。

ユダヤ教同様、一神教であるキリスト教でも、この教えは引き継がれている。農耕中心の社会であった古代オリエントでは、多産を願う豊饒神が人気であり、必然的に性に関しても、開放的であったようだ。これは、おそらくだが農耕民だけでなく、放牧を営む民族の影響も強かったと思われる。

キリスト教が、性に関して厳しい戒律を要求したのは、言い換えればそれだけ男女の関係が乱れた社会であったからだと、容易に想像できる。もっとも、意地悪な目で見れば、女性に対してはより厳しい戒律を求めていたように思う。

一神教というのは、概ね男性優位の思想を根幹に持っている。これは、神が男性神と規定されていることや、女性を家庭に閉じ込める思想が強かったからではないかと思う。

宗教的戒律の元での婚姻以外の男女の性行を、姦淫だとみなして厳しく禁じることを一概に間違いだとは思わない。しかしながら、種の保存という遺伝子的な本能に基づく性欲を抑制することは、むしろ却って人の行動を歪めてしまったと思う。

表題の作品のタイトルでもあるインキュバスとは、夢魔もしくは淫行魔とされる魔物である。中世に描かれた挿絵などから察するに、元々は古代の豊饒神を歪めて描いたものであろう。

夢に入り込む妖魔、魔物の類いは、東洋やキリスト教伝来以前の新大陸、アフリカにも見受けられるが、概ね精神病など当時の医学では理解不能な病状に対する解釈としてのものが多い。

その夢魔に性的な特性を与えたのは、キリスト教に他ならない。なにせ、夢のなかで他人の妻を姦淫することも罪だとしているほどなのだから。だが、いくら宗教的戒律により姦淫を禁じようと、人類の営みのなかで古代から現代に至るまで、不謹慎な姦淫がなくなったことはない。

やはり、本能に反する戒律は無理がある。このような無理を強要すると、必ずどこかで歪みが出る。実際、禁じているはずのキリスト教関係者でさえ、少年愛や幼児姦など異常性犯罪を起してきたことは、知る人ぞ知る事実だ。

私は本能的欲求に対しては、ある程度の抑制は必要だが、完全な抑制は不可能だと考えている。やはり、人は自然な感情を大事にするべきですよ。

ところで表題の作品は、80年代に早川書房がモダン・ホラー作品を大量に刊行してブームを狙った時に出版された一作です。キングやクーンツには遠く及ばない水準であるため、あまり売れなかったせいか、今では古本屋でも見つけ出すのは困難とされた作品でした。

私も探し出して30年あまり、ようやく見つけ出したものですが、読んでみて分かったのは、これではモダン・ホラーが廃れたのも無理はないということでした。せっかくのインキュバスも、これではアイディア倒れ。

改めて、キングやクーンツ、マキャモンらの偉大さが分かりました。それにしたって早川さんよ、もう少し作品選んでくれよな。こりゃ、竜頭蛇尾も甚だしいぞ。

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生前退位に思うこと

2016-08-16 13:24:00 | 社会・政治・一般

少し腹立たしく思っている。

今上天皇が生前退位のご意向をヴィデオ画像を通じて、国民の前に明らかにしたことは既に広く知られている。

はっきり言うが、これは皇室に関する法令に不備があることが明らかになっただけで、法令を改正すればいいだけ。天皇の生前退位なんて、日本の歴史では幾度となくあったことは、中学生の歴史知識でも分かることである。

ところが、既にマスコミを騒がしているように、やれ国体の危機だとか、憲法改正だとか、余計な騒ぎが巻き起こっている。いい加減にしろと言いたい。

高齢の天皇陛下に激務を押し付けておいて、なにが国体の危機だ。話をやたらと広げて、なに足を引っ張っているのか。要は、自分をアピールしたいだけではないかと、意地の悪い私は考えている。

現状維持こそが、仕事だと思っているバカ役人の集まりである宮内庁は、さっさと生前退位の為の法令の準備に入れ。いくら実権無き形式的存在であるとはいえ、高齢者をこき使うな。内閣はうだうだ時間稼ぎして、余計なことをせずに、さっさとやるべきことをやれ。

それなのに、識者やら保守系論者とやらが、賢しげにここぞとばかりに余計に話を拡大して、おかしな方向に持っていこうとする。まったくもって、戦前と変わりがない。

明治天皇から昭和天皇に至るまで、天皇個人の意思が政治に反映したことは、ほとんどない。政治的実権を握った天皇なんて、ここ数百年、後醍醐天皇以降ただの一人もいやしない。

常に時の権力者に権威づけするだけの形式的存在となることで生き延びてきたのが天皇である。常に権力者の道具であり、立派な形式として権力者の威光を飾ってきたにすぎないのが天皇だ。

だから、満州事変も日華事変も、天皇のご意向なんて気にも留められなかった。美濃部博士の天皇機関説は、ある意味本質を突いているからこそ、軍部に嫌われた。天皇は、戦争を拡大を望む軍部と財閥、政治家らに利用されてきたに過ぎない。

お気の毒なことに、太平洋戦争の敗北以降、平和な昭和の時代に入っても、天皇は常に時の権力者の道具であった。歴史ある天皇制度は、混乱するはずの戦後の日本をまとめる道具であった。外国向けには貧相な首相なんぞよりも、はるかに威厳のある天皇との会見の方が、役だっていた。

天皇は常に日本の政治権力者たちの道具に過ぎなかった。だから、その権力者が戦争を望めば、天皇を旗印にした戦いが起こり、平和を望むのならば、天皇を外国に親善大使として送り込ませる。

天皇個人の意思なんて、ないがしろにされてきたのが実態である。その道具が御年を召されて激務が辛かろうが、所詮道具に過ぎない。だから、内々に生前退位を希望していても、宮内庁も政府も、その個人的希望など踏みにじってきた。

太平洋戦争の敗戦に対する真摯な反省を避けてきたのは、左派文化人だけではないことが良く分かる。右派というか、保守においても、やはり敗戦の反省を十分していないこと。だからこそ、今も平然と天皇を利用しようとする。

この気の毒なご老人に、静かな老後を与える程度の温情するないらしい。まったくもって、腹立たしい。

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ターザンREBORN

2016-08-15 11:32:00 | 映画

ターザンほど誤解されたヒーローはいない。

けっこう勘違いしている人がいるが、ターザンのオリジナルはアニメ映画ではない。20世紀初頭、アメリカで大流行した安価なパルプ紙を使っての子供向け活劇雑誌に発表された小説こそがオリジナルである。

作者のエドガー・ライス・バローズは、SF作家でもあり、「火星シリーズ」や「金星シリーズ」「地底世界ペルシダー・シリーズ」などで大人気を博していたが、最大のヒットはターザンである。

いや、パルプマガジン全体をみても、スーパーマンやスパイダーマンを遥かに超える人気を誇ったのがターザンであった。この原作の小説で描かれるターザンは、英国貴族であるグレイストーク卿の血をひくだけでなく、英明な知性、拝金思想に染まらぬ高潔な精神、そして作者バローズが理想とした南部紳士の気風をまといながらも、野性児としての力強さをもっていた。

しかしながら、そのターザン像は、映画「ターザン」で大きく歪められた。「オレ、ターザン。ジャングル守る。これチーター、友達」などとぶっきら棒に喋るターザンの映像が、その後のターザンを歪めてしまった。

しかも、五輪の水泳金メダリストであるジョニー・ワイズミュラーは、理想的なターザンとして映画を大ヒットに導いた。「ア~~ア~」と叫ぶワイズミュラーの姿は人々の脳裏に刻まれてしまい、原作のターザンは忘れ去られた。

だが、原作を読んでいた少年たちが成長して映画業界に入り、そこで改めて制作されたのが「グレイストーク」であった。原作に忠実なターザン映画として、一部では高く評価されたが、世界的な大ヒットには程遠かった。

これがハリウッドで製作されたのなら、二作目はなかったと思う。しかし「グレイストーク」はイギリスで製作された。だからこそ、二作目も作られたと考えてイイと思う。

これが表題の作品だ。二作目と記したが、実は微妙なところで二作目とは言い難い部分もあるが、本当のオリジナルといえる小説のターザンを好きな人なら、こちらのほうが気に入るはずだ。

ライバル映画の多い夏休みの公開だけに、大ヒットにはならないと思うが、これを機に小説の「ターザン」に関心を持ってくれる人が増えてくれたらいいなァと思います。

ただ、残念ながら、かつてターザン・シリーズを刊行していた早川書房はお蔵入りさせているし、創元推理文庫で人気のある作品だけをまとめているものだけが、現在書店に並んでいるのが実情です。

実に腹立たしい限り。売る気のない本の版権は、解放してもらいたいものです。

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