私が十代の大半を過ごした街、三軒茶屋から引っ越したのは高校卒業後なのだが、その後も4年ほどは二か月に一回は三軒茶屋に足を運んでいた。
目的は散髪であった。小学生の頃から通っていた床屋があり、その店で10年以上髪を切ってもらっていたので、引越し先からスクーターで30分ほど走らせて通っていた。
この床屋で私は週刊少年ジャンプを読み、GOROを読み、プレイボーイ誌を読んだ。十代前半、特に中学生や高校生に人気の床屋であった。床屋の主人は、まだ若く当時30代前半ではないかと思う。
そのせいか、話しやすい大人であった。ただ、少し気の弱いところがあり、けっこう奥様の尻に敷かれていた。時折、銭湯で会うことがあった。その銭湯は、今にして思うと客層が偏っていたように思う。
近所の博徒の若い衆がよく来ていただけでなく、三茶の繁華街の夜のお店に努める若い連中が仕事前、あるいは仕事の後に一風呂浴びにきていた。そのせいかもしれないが、普通のサラリーマンたちは夜7時から10時くらいに来て、騒がしくないうちに身体を洗って、湯船につかっていた。
私は子供だったし、博徒の兄さんたちや、飲み屋のボーイさんたちに偏見はなかったから、どの時間でも気兼ねすることなく、銭湯で寛いでいた。ちなみに、床屋のご主人は、仕事を終えた7時くらいに来ることが多かった。
ところで、三軒茶屋の街は、繁華街が栄えているだけでなく、大学生の多い街でもあった。周辺には安いアパートが沢山あり、大学生が下宿していることが多かった。
当時はまだ左派の学生運動が盛んであり、学生運動家もかなり居た。いわゆる過激派といわれる運動家も隠れ潜んでいた。博徒の連中と、この学生運動家たちは不仲で、ときたま飲み屋街で喧嘩をしていた。しかし、銭湯の中では互いに知らん顔をして、やり過ごしていた。
特に誰かの指示という訳でもなく、銭湯の場はもめ事禁止といった慣習があったらしい。ただ、子供の私でも、彼らが銭湯に来る時間を、互いに微妙にずらしていることは気が付いた。
ところで、件の床屋のご主人は、商売柄どちらにも中立の立場をとっていると思っていたが、よくよく見ると、どうも違うような気がした。中立というよりも、どちらにもいい顔をしたがるように思えた。
私はそれを客商売だから仕方ないと思っていたが、後になってどうも違ったらしいと考えざるを得なかった。私は子供の頃から、はっきり言って警官嫌いであった。両親の離婚で精神的に不安定であった時期に、いろいろ悪さをして、頻繁に交番に連れ込まれて、厭な思いをしたからだ。
だから、警官の臭いというか、雰囲気には敏感である。あの人を疑う、厭らしい目つきに対して、どうしても過敏にならざるを得なかった。あれは高校の時の春休みであった。
私は近所に、ようやく出来た図書館に入り浸っていたが、そこで床屋のご主人が見知らぬ大人となにやら話し込んでいる姿を見つけた。図書館の脇にある人目に付きにくい資材置き場のようなスペースでの立ち話であった。
別に覗きの趣味はないし、誰がどこで何をしようと自由ではある。そのくらいは分かっていたが、私はすぐに気が付いた。あの見知らぬ大人は警察関係の人間だと。私の勘が正しければ、おそらく公安警察の人間ではないか。
私服ではあったが、この辺に暮らす人の服装にしては堅すぎるし、地味なわりに汚くもなく、髪が短すぎる。さりとて、役人にしては、纏う雰囲気が酷薄に過ぎる。明らかに床屋のご主人を威圧していたのが、遠目にも感じ取れた。
私は小学生の頃から、マルクス主義支持の大学生が多いキリスト教の活動に関わっていたので、公安警察の噂は聞かされていた。また、博徒の人たちと、警察の人たちとの微妙な関係も知っていた。
だから、警察と公安では雰囲気が違うことも知っていた。あの見知らぬ大人は、警官よりも堅苦しく、偽りの笑顔を見せる刑事のような演技も感じられない。
むしろ酷薄な役人のような冷淡さが嗅ぎ取れた。私の頭のなかで、ある記憶が結びついた。
私が毛語録の読書会に参加していることを知っている大人はそう多くない。床屋のご主人はその数少ない大人の一人であった。散髪の最中の雑談で、どんな本を読んでいるかとか、どこで集まっているのかを訊かれた覚えがある。
そうか、床屋のオッチャンは、スパイ役をやらされているんだと、すぐに納得した。そうとしか思えなかった。
別に軽蔑とか、恨みとかは感じなかったけれど、なにか思い出を穢された気がした。でも、あの気の弱い床屋のご主人では無理ない気もした。多分、断る勇気なんてないだろうと、容易に想像できたからだ。
当時、既に政治的な運動からは遠ざかり、高校を卒業したら、この街からも離れると分かっていた。だから、その後も店を変えることなく、その床屋に通っていた。別に訊かれても正直に、もう読書会には参加してないと言えたからでもある。
大人の世界って、けっこう汚いよなと、自分を納得させていた。いずれ、その汚い世界で生きていくのだと自覚していたから、そのスパイ疑惑は胸にしまい込み、誰にも話したことはない。
実は最近所用で、三茶の街に行った時、あの床屋さんが閉店していたのに気が付いた。近隣の方に訊いたら、ご主人は既に亡くなっており、奥様は郷里に帰られたと聞かされた。
私の住んでいた公舎も既になく、知人もほとんどいない、見知らぬ街になりつつある。私にとっては、郷里に近い感覚がある街だけに寂しいものだ。シャッターの降りた店舗を見詰めながら、懐かしさと寂しさを抱えて、私は立ち去った。
民主主義とは、多数決により政策を決める政治である。
このことが分からない、分かりたくない人たちがいる。
先週のことだが、夜もかなり遅い時間に千葉方面から都心に車を走らせていた。銀座の事務所に寄って、書類を置くと、いつものように空いているはずの国会の脇を通って帰宅するつもりであった。
ところが警察がなにやら規制している。なにかと思ったら、国会周辺で数百人ほど集まって、なにやら騒いでいる。カーTVを付けると、テロ等防止法案、いわゆる共謀罪の賛否投票のせいで、反対派が国会に集結していると報じている。
あのシールズといか言うおバカちゃんたちの残党なのだろう。馬鹿らしいので、迂回して帰宅の途に付いた。さっさとシャワーを浴びて、少しネットをしてから寝てしまった。
翌朝には、法案は可決したとの報道があった。当然であろう。前にも書いたが、共謀罪とはテロを未然に防ぐため、一般市民さえも疑ってかかる、かなり危ない法律である。
だから、その運用には確実な事後報告と、捜査過程の透明化が必要となる。結果責任を問うような形にしておけば、官僚(警察、検事)は無茶はしないものだ。というか、人事考課が減点主義の官僚はミスを嫌がるから、共謀罪の適用には慎重にならざるを得ない。その方向で、共謀罪は政府が運用をチェックするのが最も好ましいと思う。
現行法では、テロの被害が発生してからでないと警察は動けない。ここが最大の問題であり、そのために無実の可能性もある一般市民を疑ってかかる共謀罪の創設が求められた。
このかなり危ない法律に反対するのなら、共謀罪以上にテロを未然に防ぐ法案を呈示するのが本筋だと思う。もしくは、共謀罪の運用が適正になされるような、規制もしくは監視の手段を論じるのが正統な反対だと私は思う。
しかし、野党のおバカちゃんたちは、反対、反対と叫ぶだけ。あげくに、あれだけ評判が悪かった牛歩戦術をやらかす始末。マスコミはマスコミで、国会前の少数の反対バカたちを過剰に取り上げて、なんとか世論操作を画策しているだけ。
なぜに同じ馬鹿を繰り返す。なぜに反省しない。既に過去に同様の愚行の実例があり、その結果がどうであったかも分かっているではないか。
自分たちで民意を動かそうとするよりも、まず民意がどこにあるかを知る努力をするべきだ。彼らを応援する少数派の意見ではなく、応援してくれない多数派の人たちの真意を知り、それに応じようとする姿勢がない限り、彼らは相変わらずの少数野党であり続ける。
多分だけど、彼らは善意溢れる優秀な自分たちの意見に、大衆は従うべきだと思い込んでいる。大衆から学ぼうなどとは考えていない。常に上から目線であり、有権者の真意など見向きもしない。
傲慢な善意が、大衆から支持されることはない。それが分からない、分かりたくないから彼らは常に少数派であり続ける。
憐れに思わないでもない。でも、彼ら野党が愚かだからこそ、与党にも驕りが生じ、怠惰となる。はっきり言えば、彼らの傲慢な善意は政治を貶めていると思う。それを放置し、黙認しているマスコミも同罪だと思いますね。
名は体を表すという。
巨人軍の亀井選手は、まさに亀なのだろうか。決して鈍い訳でもなく、鈍足どころか俊足の選手である。また強肩を誇る一方、ホームランバッターとしては、いささか物足りない。
だから、少なくてもスーパースターではない。巨人軍に在籍を続けてきたが、常に一軍であった訳でもない。スランプに陥った時期もある。得意な打撃も、何度となくスタイルを変えている。
少年野球のスーパースターではあったが、正直プロとしては一軍半の印象が拭えない。2009年を除けば、大活躍したこともない。それでもプロとして10年以上頑張った。その歩みは遅々たるものだが、私は忘れられない選手だと考えている。
なぜか印象的な場面がまわってくる幸運な選手でもある。
先週末の試合が、まさにそれだった。幸運と書いたが、本人は針のむしろであり、胃に穴が開くほどのストレスを感じていたはずだ。実際、試合後のお立ち台で涙ながらに「心が折れた・・・」との言に嘘はあるまい。
試合中、三度絶好の場面が巡ってきた。それも前を打つ4番のマギー選手が敬遠され、対戦相手のロッテは亀井との対決を選んだ。要するに舐められたのである。しかも、巨人にとっては逆転の絶好の機会。相手にとっては、守り切れば勝利まであと一歩である。
その場面を三度も、しかも、三回とも敗退である!
そして、運命の女神はなんと残酷なことか。試合は延長であり、ロッテ一点先行で、この場面を守り切れば試合終了の、まさに土壇場であった。呆れたことに、巨人の高橋監督は、マギー敬遠の後、選手交代を告げなかった。
三度も失敗した亀井を、再度バッターボックスへ送り込んだのだ。
この時の観客の声援が興味深かった。「亀井~、頑張れ!」と「交替させろ」とのファンの応援と罵声が交互に球場に鳴り響いた。車を運転しながらTVを聴いていた私は、我慢できずにSAに飛び込み、駐車スペースでじっくりTV観戦である。
私はダメだと思ったよ。でも、亀井選手、やりました。逆転スリーランを打った。
筋書きのないドラマと知りつつも、唖然茫然となりましたね。ホームを一周している途中から、亀井選手が泣いているのが分かった。笑顔で迎える高橋監督の前にたどり着く前に号泣してましたね。
お立ち台でのインタビューを観終えてから、私は車を動かしました。ちょっと時間浪費というか、帰宅が遅れましたが、それだけの価値ある場面を観ることが出来たことに満足です。
年をとるって、こうゆうことなのか?
エスカレーターで悩んでしまった。ゴジラで有名な新宿の映画館は3階にある。だから、エスカレーターがけっこう長い。日曜夜の最終上演に間に合いそうなので、映画館に駆け込んだ。
ふと上を見上げると、ミニスカートに生足が見える。いや、それどころじゃない、明らかに下着まで見えている。
ここは新宿歌舞伎町。下着がギリギリ見えるようなきわどいファッションを身にまとった女性は、そう珍しいものではない。が、なんか違和感がある。
下着がのぞけるようなファッションを好む女性は、見られても恥ずかしくないカラフルな下着を身に付ける。私からすると、見られることを期待しているかのようにも思える。
まァ、実際には見て欲しい相手を限定しているはずで、見知らぬオジサンなんぞに見られても、嬉しくはあるまい。実際、見られることを前提にした下着は、お洒落で高額なものが多いように思う。
ミニスカをお店で仕事着としている女性方の確定申告を、幾人もやっているので、見せることを前提にした下着の値段を知った時は驚いたものだ。面積が少ない癖に、値段が高いのは何故だろうと悩んだものだ。
ところが、件のミニスカートの女性だが、どうも素人くさい。いや、下着も見られることを前提にしたものではあるまい。チラッと見ただけだが、どうも木綿の健全な下着にしか思えなかった。服装だって、いささかドンくさいように思う。
女性は引くだろうが、実のところ男って奴は、ファッショナブルなお洒落下着よりも、単純素朴な下着にエロ心を刺激されることは多い。なので、今回も素晴らしい機会ということで、私は興奮してもおかしくないはず・・・
全然、その気になれない。後ろ姿なので、容姿は不明だが、気になったのは覗ける下着よりも、躍動感を感じさせないその足だった。なんというか、細すぎることはなく、また太っている訳でもない。
ただ、筋肉が感じられない。まるで棒のような無機質な感じで、マネキンだと云われれば信じてしまいそうな感じなのだ。私は若い時は、運動部育ちなので、どうも、この手の鍛えられていない手足が好きではない。
いや、別に筋肉マッチョが好きな訳ではない。だが、締まりのない肉質もあまりそそられないのも事実である。
書くと長いが、実際には5秒程度の観察であり、すぐに痴漢行為だと気が付いたので、視線をそらした。下を向きながら、改めて自分が全然、興奮していないことに気が付き、そのことに愕然とした。
あたしゃ、男として失格ではないのか?
恥じらいもなく堂々と云わせてもらえば、私は人並みにスケベだ。その点には自信がある・・・あるよな。いや、どうなのだろう。
日常生活のなかで、偶然見えてしまった素人女性の下着なんて、男として興奮するには絶好の機会だと思う。そりゃ、銀座や赤坂あたりのプロの女性たちが見せつけてくる、見えそうで見えない生殺しの色っぽい姿の魅力を否定する気はない。
それでも、作為的なお色気よりも、無意識あるいは無自覚なお色気のほうが魅惑的なのも事実なのだ。でも、今回はまるで興奮しなかった。むしろ味気なさを感じてしまったほどだ。
若い頃の自分は、もっと単純にスケベを楽しめたのだが、年をとると枯れてくるらしい。感性が鈍くなっているのだろうかと悩んでしまいましたよ。
今の俺をみてくれ!
そんな心の叫びが聞こえてきそうな試合であった。1992年の日本武道館における全日本三冠チャンピオンであるスタン・ハンセンに挑戦者・川田利明が挑んだ試合である。
ハンセンが全日本プロレスに移籍してしばらく、彼の身の回りを世話していた若手が、実は川田利明であった。世話係とは、選手の衣類、コスチュームなどの洗濯、靴磨き、荷物運び、些細な買い物と雑多な用事を任される。要は、使いっぱしりである。
その川田だがその後、幾多の試合を得て若手から中堅へ成長し、遂にはメイン・イベントの試合にも上がれるようになった川田である。単なるアマレス上がりの若手から、空手の蹴り技を覚え、多彩な攻撃が出来る成長株となった川田である。
しかし、ハンセンは川田を認めなかった。フロントに、なんであんなグリーンボーイと俺の試合を組むんだと文句を言っていた。だから、試合を組まされても、まともな試合をやらなかった。川田の技を受けようとせず、力任せに投げ捨て、叩きつけ、暴れるだけの、雑多な試合ばかり。
しかし、今回の王座挑戦での川田の意気込みは凄かった。試合が始まるや、ハンセンのお株を奪うラフプレーの嵐で川田が優位に立つ。ここにきて、ハンセンは、ようやく川田の本気に気が付いた。
ブレーキの壊れたダンプカーと異名を取ったハンセンが、アクセルを全力で踏み込んだ。ハンセンは自分が認めた相手でないと、なかなか全力を出さない。下手に全力を出すと、相手を怪我させてしまうからだが、今の川田なら大丈夫だと判じたのであろう。
私は、この試合を表現する言葉を持たない。
結果は、ハンセンの防衛成功であった。だが、観客は負けた川田の頑張りに喝采を送った。リング上に唐黷髏?cを傲慢に見下し、お得意のロングホーンのメ[ズで控室に戻るハンセン。
その後だ。ふらふらしながら、川田はハンセンの後を追いかけた。そして控室に入ると、ふらつきながらもハンセンに握手を求めた。一瞬驚いたハンセンであるが、ニコッと笑うと川田を抱きしめて握手に応じた。
ファンが選ぶ1992年のベスト・バウトがこの試合であった。
あのグリーンボーイ風情と馬鹿にしていた川田を、ハンセンが初めて認めた試合であった。ハンセン自身も、後の回顧録で日本における最も印象に残った試合の一つに、この川田戦を上げている。
長いこと日本でトップレスラーとして活躍したハンセンだが、実は日本人相手では意外なほど名勝負といわれる試合は少ない。対馬場戦くらいではないかと思う。そして次点がこの川田戦ではないか。私にとっても忘れがたい名勝負であった。