白状するとワインが苦手だった。
ただし不味いと思ったことはない。ただ、飲むと後で頭痛がするのが嫌だった。これは赤、白、ロゼ問わず、総じて頭が痛くなった。
ただ、なんとなく原因は添加物であろうと思っていた。そう思うのは、日本酒がそうだったからだ。
若い頃から酒といえば焼酎系が大半で、時にはウィスキーとバーボンを嗜んでいた。日本酒、ワインは滅多に飲まなかった。それでも日本酒を奨められることは多く、やはり飲んだ数時間後には必ず頭痛に悩まされた。
ところが不思議なことに、日本酒によっては頭痛とは無縁のものがあった。初めて頭痛なしで酔えたのは、長野の名酒である眞澄である。北アルプスを登った帰り、松本市で夜行列車を待つ間に立ち寄った寿司やで飲んだ。
実は山登りの最中、なぜだかウニが食べたくて仕方がなかった。寿司はなんでも好きだが、別に特段ウニ好きという訳ではなかったはずだ。しかし、その時は猛烈にウニが食べたくて身悶えするほどであった。
だから帰京を待たず、電車待ちの間にパーティの仲間に断わって抜け出し、銀行に立ち寄ってお金を下ろして駅の近くの鮨屋に飛び込んだ。いきなりウニを頼むのもなんなので、普通に松コースを頼み、その後単品でウニを頼んだ。
いや~美味かった。その時、目に付いた酒が眞澄であった。これがまた美味しい日本酒であった。気に入ったので、駅へ戻る途中の酒屋で、これまた眞澄の小瓶を買ったほどである。帰路の電車のなかで飲んだせいで、顔真っ赤にしての帰京であった。
ただ、不思議なことに東京の居酒屋などで眞澄を頼むと、なぜだか飲んだ後に頭痛がした。どうもご当地で飲むのと、遠方に出荷されたものでは違うらしい。その違いが、おそらくは防腐剤ではないかと疑っていた。
疑いつつも、日ごろ飲むのがビールや酎ハイだったので、特に調べることはなかった。それでも時折、名酒と言われる日本酒を飲む機会はあった。たしかに美味しいのだが、やはり頭痛はなくならなかった。
自分には合わない酒だと諦めていたが、近年拘りの日本酒を出す店で飲んだ時は、不思議と頭痛はしなかった。薄暗い店内で、微妙な温度管理をされている日本酒だと、どうやら頭痛はしないようだ。
それが分かってからは、おそらくワインもそうなのだろうと思っていた。もっとも日頃、それほど積極的にワインを飲む機会はないので、面倒に思い、飲まずにきた。
そんな私が気になっていたのが、コンビニなどで売られている無添加を売りにした小瓶のワイン。ワインはその作り方ゆえに、どうしても防腐効果のある亜硫酸塩が入らざるを得ない。これは古来からであり、これ自体は人体に害はないはずだ。
実際、名だたるワインで亜硫酸塩の入ってないものはないし、その防腐効果を考えれば必要なものである。また頭痛の原因はアルコールそのものであり、添加物ではないとも云われている。でも、私自身はけっこう疑っている。だからこそ気になっていたのが防腐剤無添加ワインであった。
無添加と表示されているワインは、熱することで無添加を可能にしている。だから小瓶の量が限界であるようだ。元々、それほど飲酒しない私の場合、むしろ小瓶のほうがありがたい。
そこである日、この無添加ワインを試してみることにした。やはり、というか飲んだ後も酔いはしたが、頭痛はなかった。お酒に弱い私は、この小瓶サイズでも普通のワインならば大概頭痛が後から出てくる。しかし、今回は頭痛はなかったので、やはり添加物が問題なのかもしれない。
味に関して、私は語れるほどにワインを飲んでいないので単なる感想でしかないが、飲み口が軽く、決して不味いとは思わなかった。ただ防腐剤がない以上、開封したら早めに飲むべきなのは当然だろう。
うろ覚えなのだが、しっかりとした著名なワインは、テイスティングとかいって香りを楽しむ際に、空気と馴染ませておくと味が良くなると教わったことがある。実際、その時に奨められたワインは実に豊潤で豊かな香りと味が楽しめた。(後で少し頭痛がしたが)
あくまで私の場合だが、気軽に少量飲むならば無添加のワインでも十分楽しめるようだ。でも本格的なワイン好きからしたら邪道なのでしょうね。
戦後の日本の特徴は、なんといっても政策の主題を経済に絞ったことだろう。
そして、戦後の日本の最大の欠点は、なにごとも経済中心の視点で判断してしまうことだろう。このことを異常に思わない日本人が多いのが、なによりその証拠である。
決して経済を軽んじるつもりはない。経済はその国の土台であり、しっかりした基盤があるからこそ、政策は実行できる。だが、経済を中心にして考えることは弊害が大きい。
多少の例外はあるが、歴史上多くの国家は、まず自国の安全をこそ第一に考える。すなわち軍事力こそが自国の安全を保証する。だが軍事力を高めるには、経済の基盤が非常に重要となる。
戦前の大日本帝国は、日清戦争での勝利の賠償金で飛躍的軍事成長を遂げたが故に、基礎となる経済基盤が脆弱なまま大陸での戦争に深入りし、挙句に巨大な経済的基盤を持つアメリカにまで戦いを挑み、惨めに敗北している。
この経験が精神的外傷(トラウマ)になっているためか、戦後の日本人は一貫して経済を政治の主題と考え、経済力=国力だと錯覚した。現実には、アメリカの軍事的庇護下にあるからこそ、経済に偏ることが可能であったに過ぎないが、この事実を無視する人は多い。
困ったことに戦後70年以上の歳月を経ているにも関わらず、軍事力を無視した経済評論家が大半を占める。その点、表題の書の著者は、地政学的視点を持つなど多様な見地からの論述が魅力的である。
なかでも科学的見地からの経済論議は読みごたえがある。この書でも詳しく取り上げられているエレクトリック(電気)からケミストリー(化学)への移行の解説は、私自身随分勉強になった。
ただ、それでも経済評論家の欠点である軍事知識の欠落が目立つのが残念だ。多少は知識はあるようだが、適切な軍事力を保持するための見識に欠ける。これは、日本に軍事学を教える高等教育機関が存在しない(防衛大を除く)ことも大きい。
過度な軍事力は、経済を圧迫し、政治的選択を狭めるが、不足する軍事力は国家の存亡にかかわる歴史的事実を無視した未来予測は、説得力に乏しい。その点が残念でならない。
しかし、科学的見地から今後の日本経済の進むべき方向を明示している本書は、その部分だけでも読む価値があると私は考えています。機会がありましたら、是非ご一読のほどを。
国際政治に甘い期待は禁物だ。
北京政府の妨害で新型コロナ対策のワクチンの入手に苦労していた台湾に対して、日本政府がワクチンを提供したことが話題になっていた。
国際的に孤立している台湾が喜んだのは確かだし、日本と台湾との友好促進に大いに役立ったことも確実だ。
しかし、だからといって全面的に両国の関係が親密になったとは言えない。むしろ日本側に勘違いが増えた気がして、それが心配だ。
台湾は本来、中華民国であり、シナの大地の本来の支配者であったはずだ。しかし中国共産党との内戦に敗れて、台湾島に逃げ込んで島を支配して生き延びた、云わば亡命政権に近い性格を持つ。
しかも厄介なことに、現台湾政府は侵略者でもある。日本統治時代より前から台湾島に住むシナ人たちを権力の座から追い払い、その上に台湾島に古来から住んでいた原住民をも山奥に追いやった強権者でもある。
つまり台湾という国家は、決して一枚岩ではない。複雑な社会構造を内包している。それが目立たないのは、対北京政府の一点においてのみ団結するからに過ぎない。言い換えれば、愛国心に乏しい国民でもある。
実際、私の知る限り多くの台湾人は、国外に避難場所を持っている。もちろん経済的に許される限りにおいてだが、元々商才に長けた国民性故に、アメリカ、カナダ、日本など少なからぬ国に不動産等を持ち、共産シナの侵略に備えている。
たださすがに数十年経つと、それなりに愛国心が芽生えるようで、祖国としての台湾に対する愛着心も若い人たちには育っているように思える。
でも、だからこそ厄介なのだと私は考えている。
現在の台湾の置かれている国際的状況は、決して芳しいものではない。経済発展著しい共産シナとの友好を望む多くの国は、台湾との外交関係を捨てて、共産シナとの関係を重視している。台湾の国際的孤立は深まる一方である。
だからこそ、今回の日本政府による対コロナのワクチン配布は熱烈な歓迎を受けた。またアメリカのバイデン政権も、台湾に対して好意的である。
このような状況を看過するほど共産シナは甘くない。そして台湾はそのことを熟知している。
私が考える最悪の状況の一つは、台湾が日本に対して共産シナの尖兵として牙を剥くことだ。香港に対する一国二制度のように、現行の台湾政府の自治を認める一方で、日本やアメリカに居る台湾人を共産シナの工作員として活用する。
もちろん、これはアメリカが台湾に対する関心を失ったか、あるいは増強する共産シナとの妥協のために台湾を差し出すといった国際関係の変化が絶対要件ではある。
なにが厄介かといえば、台湾人はアメリカや日本の経済界に深く浸透しており、その影響は極めて広いからだ。武器を持たずとも、情報を武器に様々な政治的工作をやられると、脆弱な日本などは相当なダメージを被る。
コリア半島の人たちだと、最初から警戒の対象となっていることが多いが、台湾人はそのような警戒対象とはなっていない。実際、彼らの振る舞いは、西側先進国の経済人として相応なマナーを有している。
だからこそ、台湾企業と日本企業が長年にわたり円滑な関係を築いている。この実績があるがゆえに、台湾を警戒することが難しい。
断わっておくが、別に私は台湾を嫌っているのではない。シンガポールの華僑同様、日本にとって比較的良好な関係を築きやすい国として、むしろ台湾を高く評価している。
だからこそ潜在的敵性国家となった場合は、非常に厄介だと考えざるを得ない。そうならない為にも、経済や文化だけでなく、政治面、軍事面でも台湾と友好的な関係を育む必要性を強く感じているのです。
でも、これは事なかれ平和主義が蔓延している日本には、かなりハードルが高いのが現実です。ですが敵(共産シナ)の敵(台湾)は味方となる可能性があることは是非とも銘記しておくべきでしょう。
人工知能の恐ろしさを知らしめた映画として、「ターミネーター」がある。
スカイネットが人類に対して反乱を起こし、その尖兵として対人類殺戮兵器として生み出されたのがアーノルド・シュワルツネッガーが演じるターミネーターであった。
しかし、その上映される数十年前に書かれたSF小説において、生きとし生きる者すべてを滅ぼした機械生物が誕生していたのをご存じだろうか。それが表題の作品である。
太古の時代、宇宙の一角で敵を徹底的に滅ぼすために製造された究極の破壊兵器、それがバーサーカーである。このバーサーカーは、自らの意志で生きとし生きる者全てを滅することを目標に掲げている。
そして、その人工知能でバーサーカー自身を複製するだけでなく、敵に応じて変化させ、より強力な破壊兵器として進化を繰り返してきた恐るべき宇宙の災厄であった。既にその製造者は滅びてしまったが、それでもバーサーカーは当初の目的を完遂するため、全宇宙の生物との戦いを数十万年にわたり繰り広げている。
そのバーサーカーが地球人類を発見してしまった。この機械生命と人間の果てなき戦いを描いたのが表題の作品である。当然に一戦で終わるはずもなく、シリーズものとして発表されている。
私はSF小説をかなり読んでいると自負しているが、この作品の怖さは格別であったと思う。今世紀に入り、アメリカを始め幾つもの国が人工知能の開発に力を入れている。その多くが軍事用であることは、十分注意すべきことだと思う。
もっとも当分の間、人工知能は一部の分野において人の思考を上回るだろうが、人の代替は無理だと思う。なぜなら人間は二進法でだけ思考するわけではないからだ。
人間の脳内では、疑似二進法とも云うべき生体電気信号のやり取りがあり、これが人間の論理的思考のベースであると考えられている。しかし、電気信号とは別に、脳内麻薬と言われるような化学物質などのやり取りが脳内で行われており、それが人の感情面に強く働きかけていることも徐々に分かってきている。
だが現在開発が進む人工知能は、あくまで電気信号のやり取りによる二進法の疑似思考がベースとなる。この方向を突き進めば、自ずと人間とは別種の思考を持つ疑似知能に進む可能性が高いと予測も出来る。
無駄を省き解答までの最短経路を目指す人工知能は、その性能が上がれば上がるほど、無駄が多い思考をする人間を下位の存在と認識するのではないか。そして無駄を排除するため、人間を排除する方向へ進むのではないか。
そんな恐浮ウえてくれたのが表題の小説であった。人工知能の進化は、必ずしも人と同じ方向へは進まない可能性が高い。
そして恐ろしいことに人工知能の研究は軍事分野が突出している。武力を駆使する人工知能の進化の行く末に危機感を持つべきだと私は考えています。
今後、大きく進捗することが予想されるのが人工知能である。
コンピューターが発達してくれば、必然的に人間の知能に基づいた能力を補佐し、拡張する機能が期待される人工知能に行き着くことは必然だ。
表題の作品は、昭和40年代に放送された実写版ロボットもので、少し前に驚異的人気を誇った「鉄人28号」の後釜であった。原作者は同じく横山光輝ではあるが、実は絵コンテと大筋だけで実際の作画は当初小澤さとしが描いていた。
しかし、目指す方向がちがったせいで小澤がやる気をなくし、その後はアシスタント等複数名が原作漫画を描いた。多忙を極めた横山が、この作品に戻るのは後半からであり、そのせいで当初とだいぶ絵柄が変わっている。
そのような経緯があるせいか、私としては原作の漫画よりもTV版のほうが良い印象を持っている。
ところで、このジャイアント・ロボは本来、地球征服を狙うBF団の秘密兵器であり、人工知能により動く最新鋭の兵器であった。しかし、主人公の大作少年が最初に声を吹き込んでしまったため、以降は大作少年の指示にしか従わず、BF団と戦う正義のロボットとして活躍する。
そして最終回、遂にBF団のボスである謎の宇宙人ギロチン帝王が登場する。彼は全身が核物質で出来ており、攻撃を受ければ地球くらい吹き飛ばしてしまう破壊力がある生きた爆弾であった。
戸惑う大作少年であったが、その時ジャイアント・ロボが勝手に動き出した。彼の人工知能は経験値を積み、ある程度自分で判断して動けるようになっていた。そして、ロボはギロチン帝王を羽交い絞めにして空へ飛びだした。
大作少年はロボの意図に気が付いて止めようと指示を出すが、それをロボは拒否して、そのまま宇宙空間まで飛行し、最後は小惑星に衝突してギロチン帝王と共に消滅する。
尊い犠牲により地球の平和は守られたとしてエンディングを迎える。これがTV版のジャイアント・ロボであった。
この番組を視ていたのは、小学生低学年の頃だったが、エンディングの衝撃度は「タイガーマスク」に匹敵するものであったと記憶している。
鉄人28号は操縦機を持つ者次第で、正義のロボットにもなれば、破壊の使者ともなりうる。これは、これで納得できる。しかしジャイアント・ロボは違う。その人工知能により自ら判断して、最後は正義の殉教者として散っていく。
まだSF小説を読んでいなかった私にとって、機械が人間の指示に従わないことが衝撃であった。本来、人間のために作られた機械の反乱、それがジャイアント・ロボの場合は人間の役に立つ方向で進んだ。
ギロチン帝王を唐オた喜びと、ジャイアント・ロボを失った喪失感と同時に、機械が人間の指示に従わないことへの不安を感じさせた不思議な番組でした。
そのせいか、どうかは分かりませんが、鉄人28号ほどは人気がなかった気がします。