
昨日の続きになるが、少し思い違いをした。神足勝記がこの辺りの地形を調べるために来たのは、彼のことを研究している大澤氏によれば、明治18年のことだという。もっと、早いと思っていた。
その彼は、雨請岳登頂後に再び仏平に下っている。ということは、当時はまだ現在の登山道はなかったということになってしまうが、はてどうだったか。見逃した可能性もなくはないが、ちょっと考えにくい。ともかくその後一行は、富士見側に雨請岳の山腹を巻いて、恐らくは法華道を池の十(いけのとう)を通り、若宮に下ったのだと思われる。
江戸の時代より、諏訪藩は高遠藩よりも藩の力が強かった。そのため、普通だったら山の稜線が境界となるような場所や土地でも、かなり伊那側は食い込まれたまま、現在に至っている例もある。
入笠山がそうだというわけでは、もちろんない。都会からの交通の便などを考えても、この山に親しむ人たちが次第に、諏訪や富士見側から来るようになり、山名もそうした時代の流れの中で一つに落ち着いたということなのだと思う。
入笠湿原などと今では呼ばれているあの湿原の近くには、「鐘打平(かねうちだいら)」などという古い地名が残っているが、いつまで人々の記憶に残っていくことか。入笠山登山は青柳駅からの登山道が一般的だったころもあったが、もう利用する人は極めて少ない。そんなふうに、様々な要因があって変わっていくのは、致し方ない。因みに、かの神足勝記でさえも明治30年の記録には、山名を雨請岳でなく入笠山としていると、大澤氏から教えられた。
山小屋「農協ハウス」とキャンプ場の営業に関しましてはカテゴリー別の「H28年度の営業案内」をご覧ください。