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「別れの一本杉」という歌をご存知だろうか。恐らくこの歌を知る人は若くとも50代前後、もしくはそれ以上の年齢になるはずだと思う。作詞:高野公男、作曲:船村徹、歌は春日八郎で、戦後も10年、1955年にレコードが発売され、大ヒットした。
この曲を作詞した高野公男は若くして病没したが、戦後の一時期を信州の伊那福島のある寺に、療養のため仮寓していたことがあった。当時のことだから恐らく、結核を患っていたのだろう。日課にしていた散歩で、まだ舗装もされていないほこりっぽい県道を行くと、村のはずれに大きな1本の杉の木があった。歌では「一本杉の石の地蔵さんのよ、村はずれ」とあるが、地蔵さんはなかった、創作だろう。もっと言えば、その木は杉ではなくサワラだった。しかし、それももうない。
サワラだけでなく、高野公男が病の身で一時を過ごした寺も今はなくなってしまって、最早往時を物語るものといえば「一本杉」の根元にあった小さな祠だけだ。現在のように県道が拡張されて、サワラの木は倒され、代わって植えられた貧弱な松やイチョウの木では、とても名曲など生まれることはなかったに違いない。
池尾(火)神社などと呼ぶもおこがましいその小さな氏神の社(やしろ)から隔年で、子供らが頭に鹿の角を模した作り物を載せ、裃姿の村長(むらおさ=区長)に引率されて、箕輪町の木の下にある南宮神社の例大祭に参加する慣わしが、平成の世の現在も続いている。
南宮神社は祭神がタケミナカタとヤサカトメだから、当然諏訪大社の分社であって、鹿頭を模した被り物も、またその踊り「鹿頭踊り」も、諏訪大社との関係深さを伝えている。ともかくそんな行事の準備があって、昨日は朝から忙しい思いをした。
名曲の生まれたことも知らずに高野公男は逝った。病床にあって思い出す、夕暮れの中に立っていた村はずれの大木は、間違いなく「一本杉」だったろう。畑の脇の一群の石塔、石柱は、「石の地蔵さん」だったろう。歌のように、別れてきた娘さんはそれからずっと、彼からの便りを待ち続けただろうが、果たして幾通の便りが彼女の許に届いたのだろうか。
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