
今年は、元旦に上から帰ってきて10日間、電話での会話はいくつかあったが、誰とも顔を見て新年の挨拶をすることはなかった。それが三日前、一昨日、そして昨日とようやく、独居状態から抜け出た。それでも冬の夜は一人で、長く、寒い。テレビを見て時を潰すのは何となく惜しくて、努めて何か別のことをしようと考える。しかし最近は、酒の吸収がよくないのか本を読む気もあまりせず、ひたすら、いたずらに、呆けていることが多くなった。
こういう状態と似ているのが、単独の冬の山の夜である。夕暮れから、かなり長い時間を一人だけで過ごす。テントという狭い空間の中で、遅々として進まない時間と格闘していたはずだが、「孤独の甘味」などと気取った言葉を山のノートに残したこともあるくらいだから、それをあまり苦痛とは思っていなかった気がする。自ら承知してだが、あのくらい押し付けられ、強制された無為の時というものを経験すると、頭の中が少しは掃除されたようだ。30代半ばから、意外と単独の山行が増えた。
以前にも書いたが、山の良さを識るなら単独に尽きる。特に冬の山がいい。夕暮れの中に沈む穂高の眺め、湯桧曽川の瀬音を聞きながら飲んだ酒の味、南稜の上で吹かれた風と雪、富士山6合目の疎林の中で眺めた厳冬の月の光・・・、日中の行動よりもテントを張り終え、一安堵してからの方が深く記憶に残っている。湯を沸かし、コッヘルから立ち昇る湯気を見ながら里に残してきた人のことを気遣う。その人が用意してくれた心づくしの夕飯を食べる。またいつもの肉屋で、山に行く者のための食糧だと、言わずもがなのことを話してきたのだろう。そんなことを考えていると、酔いも手伝って、そのまま際限のない深い意識の奥底に沈んでいくような気がしてくる。
山にいて、下界のことを忘れることはない。むしろ、山の中での方が、日常の些事と思えることまでが甦る。街にいて山を想い、ようやく山に来て街のことを思う。極北の街角で感じたような微かなうしろめたさが、コッヘルの湯気の中から一緒に湧いてきたこともある。
日が傾きかけた長い影を引く落葉樹の森や牧場も、やがては雪の中に眠るでしょう。お出掛けください。
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