入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     24年「冬」(14)

2024年01月17日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 
 今朝、午前8時の室内気温はピッタリ零度。昨日よりか3度低い。起き出すのが億劫に感じられてしばらく躊躇していた。それでも何とか布団から脱け出すと、頭と首が寒い。
 外に出てみたら今朝はよく晴れていて、経ヶ岳も雪を増やして真っ青な空に見えていた。その冬の青空、澄んだ空であればあるほど冷気を孕み、虚空の冷淡、非情な寒さが痛いほど伝わってくる。

 こういう冬の日々、何をしようとも、しなくとも自由である。ただ、震災の復旧のお手伝いをしたいと申し出ても、足手まといになるからと断られてしまうように、その自由はあくまでも自分の狭い世界においてでしかない。
 
 昨日は久しぶりに散歩に出た。考えてみれば、今年初めてだった。それほど散歩も自分の気儘で、毎日のように決まった時間に万歩計を睨みながら半ば義務的に歩くのとは違う。散歩なのだから。
 その点「心のラジオ体操」は散歩とは少し違う。これはパラフィンのような薄く、極めて短期な「今」を実感し、体験するためで、空疎な日常生活の中の、さらに極めて人工的な無為であり、あれも休憩のようなものである。

「座る」時は鼻呼吸に意識を集中し、雑念は排除するようにと教えられている。そんなことができるか否かはさておき、散歩は、道中、次々と湧いてくる雑念、妄念で頭の中は一杯になる。そして許容量の少ない脳は、それらを長く留めておけずに、同じようにそれらを次々と蒸発させ、消えていくに任せる。
 
 散歩はそれがいい。何かを突き詰めて考えるというわけではなく、目の前に広がる伊那谷の冬枯れた眺め、背後の雪を被った西山、午後の勢力を失いつつある日の光と一緒になって、自分の意志とは別に勝手に湧いてくるのだ。
 時には気が付けば瀬澤川の橋を渡り、いつの間にか隣の集落の端を歩いていることもある。散歩道は極力人家を避け、人の目に付かないような場所を歩くようにしていて、最近は夜間を止めたが昼間でもまず人と出会うことはない。
 
 その先に待つ峠がほぼ散歩の中間点となるが、眼前の眺めだけでは不足なのか、今日に至った時代の経過を思い、この先どのように変わっていくかを想像する。それは、自分が単にこの時代、この風景に紛れ込み、やがて去っていく存在に過ぎないことを意識するからだと思う。
 本日はこの辺で。
 

 

 


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