
昨日の夕方、春雷の音を耳にした。短い間だったが、3,4回ほどかなり大きな音がして、それらを逝く冬の最後のあがきのようにも聞いた。
夜になって雨が止み、雲間からは大きな月が昇ってきた。もう、冬の星空を支配していたかつての主役は西にその一部を見せていただけで、雲がなければ代わって北斗七星や牛飼座の主星アルクトゥールスがその座を占めているのが見えただろう。
地上とは別に、星々は確実に季節の移ろいを伝えているが、その正確無比な星の運行を時には非情と感じたりすることもある。
朝風呂の中で、思い出せない人の名前を記憶の深い井戸から手繰るようにして引き上げた。時間はかかったが、落とさずに何とかできた。
その人は70年代に世間を騒がせ、20年近い獄中生活をして社会に戻って来た謂わば「今浦島」の活動家だった。年齢的にあまり違いがなく、その人の消息を調べてみようとしたのは単なる好奇心で、それ以上のものではなかった。そしたら、70代半ばですでに亡くなっていた。
あの頃は、未舗装の荒れた政治の道に迷い込み、帰ってこなかった人、野垂れ死にした人、人生を台無しにした人がたくさんいた。単なる一介の傍観者に過ぎなかったが、そのころ流行った歌に釣られて思い出すことがある。
いつのころからか「多様性」などという言葉が世の中で肯定的に使われるようになった。それが社会を動かし、発展させ、人々により良い未来をもたらすということらしい、詳しいことは知らない。
確かに同性婚が法的に認められれば、その人たちとってはいいことだろう。あるいは、結婚も愛情を優先させ、生物としての役割である子孫を残さないという選択も、それを望む人たちには勝手いいだろう。結婚という法的な束縛を拒否して暮らす人たちにもこの言葉は都合がいいはずだ。
昔は「自由」で、今は「多様性」ということか。
どうもテレビなどで、知識人と呼ばれる頭のいい人らは、こういう現今の風潮を歓迎すような発言をすることが多い。知識人としての体裁で、本音はどうか知らない、と思うこともある。
もし公に、こうした世の流れに逆らうようなことを言えば「時代遅れ」、「無知」、「馬鹿」の烙印をたちまち押されてしまいそうだ。
日本の歴史、文化、伝統が、他所の国のそれらと比べ、特に秀でたものであるか否かは知らない。しかし、この国に生まれ、育ち、それらの影響を受けてきたことは間違いがない。当然、愛着はある。
馬鹿と言われてもそうだからいいが、このまま「多様性」が都合のいい方便にされてしまわないかと気になる。
本日はこの辺で。