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もう、待ちきれない
午前7時50分、外の気温は零下2度、快晴。これから気温が上がれば、水気の多い雪のために無惨な姿を晒していたユキワリソウ、「もどき」はもう付けない、も復活しつつあり、きっと可憐な花を咲かすだろう。よく見ると蕾の数も増えている。あんな寒さの中で、健気なものだ。
人間の方はそうはいかず、取り敢えずは風呂を沸かし身体を暖めなければ、あの国のワオキツネザルさながら、何をする気にもなれない。
風呂と言えば、あまりその回数を増やすと、皮膚から油気がなくなって身体のあちらこちらがむずがゆくなるような気がする。やはり、過ぎたるは及ばざるがごとし、ということか。
著者の名前もそうだったが、出身地が下伊那郡喬木(たかぎ)村で、「牧場経営する父に連れられ伊那、赤石山系を渉猟した(長野県文学全集 5)」とあり、しかも「山窩(さんか)小説家として名を広めた」のだと。そうなれば、以前からこういう方面には関心があり、もう無視はできない。椋鳩十(むくはとじゅう)のことである。
名前はどこかで見たか聞いたか、うっすらと知っていた。しかし、それ以上のことは何も知らず、著作を読んだこともなかった。それが偶然、別な作家の本を読もうとして、この人に出会えた。
小説だから、「山窩」と呼ばれた人たちの実態にどこまで近づいているかは分からない。それでも、かつて山の中でその時々に集団を作り、定住することなく生きた人たちがいて、その暮らしの様子、雰囲気は幾つかの作品から伝わってくる。
「天幕」とか単に「幕」と書く。テントのことだが、彼らが使用していたそれが実際はどんなものだったか、今のテント並みにちゃんと雨露をしのぐことができたとは思えない。
稼業と言えば、狩猟以外にはおよそ生産的なことはせず、里へ下り盗みをしたり、むしろそれが本業だったかも知れない。男女のことも風紀はかなり乱れていたように書いている。これも本当かどうかは分からない。
それにしても、どれほどこんな人たちが日本の山の中にいたのだろうか。「赤石山脈」も今では「南アルプス」と呼ばれているが、「飛騨山脈」と呼ばれた「北アルプス」よりか山は深いとよく言われる。こういう人たちが生きていけるだけの場が赤石山脈や秩父にはあったのだろうと想像するが、その人々の謂れについても興味が湧く。
言い添えておくが、同じ山の暮らしをして来た集団である木地師や落人と、山窩とは違う。こちらは誇り高き人々で、木地師は文徳天皇の第一皇子である惟喬親王に縁のある人々だと言われ、墓標には16弁の菊の紋章が彫られている。
確か今ごろだった、そうした墓を辰野町の横川の上流まで北原のお師匠と見にいったこともある。
また、落人の集落は伊那の長谷の奥「裏」にも、平家に縁のある人々の末裔が住んでいたとされる場所があり、知られている。ただし、古くからの人は殆どいないようだ。
本日はこの辺で。