春まだ浅き伊那谷
筋萎縮性側索硬化症(いわゆるALS)を患っている女性の求めに応じ、薬物を投与して死にいたらしめた医師に対する裁判、懲役18年の判決が出たと知って驚いたと先週の土曜日に呟いた。
その後で、それを報じる新聞記事を読んでみた。量刑に関しては医師の側に重大な余件もあり、この点に関して分を超えそうなので、呟くのは控えておく。
判決内容は、安楽死という手段を一概に否定したわけではなく、ALSという回復の見込みのない難病に対し、当の女性の心情にも配慮していた。
そして、1)「苦痛の除去、緩和のために他に手段がないことを慎重に判断する」2)「患者に説明を尽くし、意志を確認する」3)「苦痛の少ない医学的な方法を用いる」4)「一連の過程を記録する」、これらが、医療従事者らが安楽死の求めに応じる際の「例外的に許容される四つの要件」だとした。
こういう判決内容だったが、生死に関わる哲学的問題でもあり、今後の安楽死の議論の一歩前進になるかも知れないし、是非なってほしい。
もとより、自殺者などいないにこしたことはない。しかし、不治の病による人格崩壊の怖れ、あるいは耐え難い苦痛、そればかりか生への失望、その意欲の喪失、自死を考える理由はいろいろとあるだろう。そこに、できるだけ苦痛を伴わない安楽死という手段が、窮余の解決策として考えられるのは不思議でもなんでもない、と思う。
自己の決定権の観点からも将来は、安楽死という手段により自らの生命を絶つことをより柔軟に認められるような社会が来ることを望む。それが、自分ばかりでなく、自死を決断した人たちの過激な方法に走らせない、"不条理な支援"の一つともなり得よう。
オランダの93歳になる元首相夫婦の例もある。立前では生命の大切なことを言う人たちでも、多くの人々があの死を受け入れ、羨望さえした。
この安楽死の問題は老人ばかりのことではないが、高齢化社会を迎え、老々介護、独居老人、高額医療の問題等々を考えても、安楽死については日本でも、さらに踏み込んだ論議をすべき時が来たと思う。
塩気の抜けた呟きになってしまった。意を尽くせないまま本日はこの辺で。