入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’22年「冬」(13)

2022年01月18日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

                                  Photo by Ume氏

 昨日のこと、5時少し前だったがカーテンを閉めようとして外を見たら、雪が激しく降っていた。久しぶりの雪降りに驚き、それを口実にして一度閉めたカーテンまた開けて、雪見酒と洒落てみることにした。いつもなら5時に夕食の支度を始めるから、酒を飲み始めるのも普段よりか少し早くなる。雪を言い訳にしたわけだ。
 ところが、その雪は呆気なく止んでしまった。止んでしまったが、と言って早めの夕飯の用意はできてしまったから、そのまま寒々とした冬空を眺めながら貰い物の越後の銘酒を口に含んだ。同じ越後でも、普段飲んでいる酒より辛口だなどと思いながら、炬燵の傍に読みかけの本が目に付いた。
 
 悲劇の英雄、源予州(義経)はまだ31歳で、その妻22歳と4歳の娘、それぞれを殺した後に自害したとある。遠く陸奥の国、衣川館における壮烈な最期は有名でも、妻子を伴い下っていったとは知らなかった。源頼朝の命の他に勅命までが下っていたとは・・・、雪の止んだ灰色の空が哀れを誘った。



 上の写真は昨年の1月12日に撮ったもので、昨日の東部支所の所長が撮った写真と比べれば(PHの大きさは縮尺できなかっただけ、念のため)、どれほど雪の量が違うかが分かると思う。この時はご覧のように車で難なく上まで行っている。
 
 この小屋、なぜか昨秋映画関係者の目に留まり、撮影場所に使われた。公開は今年の年末ぐらいになるようで、そのころには詳しいことを呟ける。
 牧場が撮影現場になることはよくあっても小屋の、それも中が撮影場所になるなどということは初めてだった。この時も撮影終了後の片付けは夜中まで及んだが、それでも出演者、撮影関係者ともども、いい雰囲気で終えることができた。
 薪割の撮影場面で某俳優が失敗ばかりするので、それを教える側として、「運動神経がよくないんじゃないの」なんて言わずもがなのことを口にした。すると「いやー、そうなんだよね」という言葉が返ってきて、その素直さに笑った。結構名の知れた芸人だと聞いたが、親しみのある人物だった。

 里の暮らしも早や2か月近くが経つ。まだ炬燵の囚われ人であることに甘んじているが、時々鮮やかな新緑が始まったあの丘、大きな青い空、牛の姿などを思い浮かべることがある。
 北原のお師匠、Umeさんも、ご自愛専一に。本日はこの辺で。
 
 
 
 
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     ’22年「冬」(12)

2022年01月17日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

                                     Photo by Ume氏

 冬ごもりのこの時季、この独り言の題名に相応しい呟きを連日続けるのはさすがに楽ではない。無理してみても詮無いこととは分かっているが、それでもきょうは何をほざいているのかと聞き耳を立ててくれている人が何人かはいることを知っている。で、ついついここまで来てしまった。今回のように幾日かサボると、何かあったのかと心配してくれる人もいる。
 そうしたこともあってどうにかここまで続いてきたのだが、当初の目論見の通り、この呟きが牧場の広報的な発信、あるいは宣伝にも、どれほどの効果があったかはいまだよく分からない。ただ、この呟きが取り持つ人との縁は生まれ、それだけでも、ささやかな努力が報われたと考えている。いつまで続けるかは自分の中で決めているので、それまではお付き合い願えれば有難い。

 そういう中の先週土曜日、東部支所の所長が富士見側からゴンドラを利用して牧場まで行き、その時の様子を写真とともに伝えてくれた。これは実に思いがけなかった話で、15年間歴代の東部の各所長には様々な面で支援をしてもらってきたが、あの雪の中を牧場の小屋までわざわざ出掛けてくれた人は初めてだった。
 管理棟の入り口の日溜り、冷えたドロドロのウイスキーをよく飲む場所で、同所長も昼飯を食べながら連絡をくれ、あの場所がどれほど気が和み、落ち着く所かも併せて伝えてくれた。
 写真で見る限り天気はそれほど良くなかったようだが、実際はどうだったろう。
 






 心配していた屋根の雪は、殆どが落雪したようで安堵した。それでも雪の深さは相当あり、もちろん膝下というわけにはいかないはずだ。今までずっと、誰も訪れる人のいないあの侘しい小屋を不憫にさえ思っていたが、そこへ最も相応しい人の一人が行ってくれて良かった。

 そのうち、深雪によろけながら上に行くつもりでいる。本日はこの辺で。
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     ’22年「冬」(11)

2022年01月14日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

                                  Photo by Ume氏

 きょうは朝から灰色の曇り空に雪が舞っている。大雪にでもなれば厄介なことになると雨量・雲量の予報を見たら、それほど心配することはなかった。長野県の県単位の予報は雪でも、明日になれば県の中部、南部は青空が拡がるだろう。
 
 今では学校でそういう言葉を教えないだろうが、われわれが小学生、いや中学生のころでも、「表日本気候」、「裏日本気候」というふうに我が国の気候を二大別して教えていた。
 伊那は標高が700㍍位あり、気温は低いが降雪量はそれほどではなく、表日本気候に属していたと記憶している。雪も降って橇遊びなどを近くの里山でやったが、以前に下駄スケートの思い出を呟いたように小学校に上がると、冬はもっぱらスケートに熱中したのも、そんな気候のせいだった。
 人によっては「表」と「裏」に差別的な響きを感ずるかも知れないが、思いがけずこんな懐かしい言葉が口を突き、冬ごもりの炬燵の中で遠くへと行ってしまった子供のころを思い出した。
 あのころは冬は寒いのが当然で、だから家に帰り一度は炬燵の中に潜り込んでも、外から聞こえてくる声に抗えず、空腹を抱えても出て行ったものだ。やっていたのはもっぱらソフトボール、グランドは田圃だった。用具などなかったからバットは稲掛け、はぞに使った棒切れで、そのころはグローブにはまだ手が届かず誰もが素手、そのためにしもやけ、アカギレなぞは当たり前、かすり傷として耐えた。
 さらにもう少し大きくなると卓球にも夢中になった。夜毎に古い公民館に併設されていたチサンジョ(稚蚕所)の卓球台に群がり、時にはその所有者だった青年会員に見付かり、お小言を頂戴したことも懐かしいと言えば懐かしい。こうして思い返せば正に腕白、よく動き回った。(1月13日記)

 子供の外で遊ぶ声がしなくなって久しい。聞くところによれば、このごろはここらでも少子化の影響で、子供のための催しを中止するようなこともあるのだとか。正月といえばわれわれの子供のころは凧揚げだったが、今年もそんな風景はついぞ目にしなかった。注連飾りを集めどんど焼きはやったようだが、それだって大人が協力し、現場に付き添ってできたことで、子供たちが率先してしたわけではないようだ。
 時代は変わる。それは仕方ない。それでも、一昨夜もいつもの散歩をしていて、ふる里の風景と記憶は表裏一体であることを、天竜川の冷たい川音を聞きながら身に沁みて感じた。今の子供たちが大きくなった時、果たしてどんなふる里像を思い描くのだろうか。
 本日はこの辺で。明日もUme氏の写真をお楽しみに。
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     ’22年「冬」(10)

2022年01月12日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

                                  Photo by Ume氏

 風の音で目が覚めた。結構、荒れた天気だ。雪雲の切れ間に青空が見えていても、西山は灰色の雲に隠れて見えない。山はまた雪だろう。
 
 どこのスキー場も今冬は雪不足に悩むことはなさそうだが、肝心のスキー客がさらに激減してしまったようだ。正月など、リフト待ち30分が当然のようだった半世紀前と比べたら、ブームは去り、多くのスキー場が存続の危機にあるという。最盛期には60万の人が足を運んだという御嶽山の某スキー場は、4万人だと。
 それにしても、あの異常とも思えるスキーブームは一体どうして生まれ、そしてどうして衰退してしまったのだろうか。’60年代から’70年代にかけての高度成長期と重なり、このころに自動車の所有率が加速した時代でもある。それが後押した面もあっただろう。あのころは冬になれば、県外者の車の殆どがスキーを車の屋根に乗せて走っていた。
 
 車ほどではないにしても、スキーや関連する用具は高価だった。2台目の板や金具、靴などは給料の2ヶ月分もしたのを、会社の組合を通じて月賦で買った。身に付ける物も高かった。リフト代もそこそこしたし、日帰りならまだしも宿泊が一般的だったから、スキーはゴルフよりもっと金のかかるスポーツだっただろう。
 年越しでスキーをして、成人式の休みもまた北信の馴染の民宿に来ていた。宿泊者が一杯で土蔵にに寝かされたのもこのころのことで、年間では30日くらいは滑った。
 ところが、それほど熱中した割合には肝心のスキーはあまり上達せず、仲間内でも誰かがとびぬけて上手くなったということはなかった。その間、スキー学校の門を叩いたのは約1名、しかも一度だけだった。あれも、みな独りよがりの「オレが病」のせいで、「滑る」と言わず「舞う」と言っていた。
 
 高価なスキー用具、宿泊代や交通費などの費用、渋滞の待っている道路、そしてなかなか上達しない技術。それと、指導方針が定まらない全日本スキー連盟(SAJ)のせいもある。「外足荷重」だと言ってみたり「内足荷重」だと真逆のことを言ってみたり、一般のスキーヤーを競技スキーやデモ選の選手並みに仕立て上げたいのか硬直した教本、指導内容。また、用品、用具のメーカーも、ブームに悪乗りして値段ばかり高い商品をスキーヤーに強いてブームの足を引っ張り、今また同じ轍を踏もうとしているように見える。
 
 スキー場から人が去ったと聞けばやはり寂しい。あの雪深い北信の小さな村も、今では都会から訪れるスキーヤーもなく、民宿などをやったころをあの人たちはどんなふうに思い返しているのだろう。
 本日はこの辺で。

 

 
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     ’22年「冬」(9)

2022年01月11日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

                               Photo by Ume氏

 雨が降っている。先程カーテンの隙間から外を覗いたら薄っすらと白くなっていたから、昨夜は雪だったようだ。今朝の気温はそれほど低くなく、恐らく零度を上回っていると思われるが、ここよりか1千㍍ほど標高の高い牧場は、それでも雪だと考えた方がよさそうだ。さらに積雪は増えるばかりだろう。
 
 昨日の匿名さんの報告を受けた彼女の仲間の一人が「膝下なんてラッセルじゃねえよ、雪道だ」と、元気な言葉が帰ってきたらしい。越年で行った時の状況から考えても雪の量が「膝下」とは思えないし、降雪から日も経っているから雪は重く、吹き溜まりはより雪の量が多い。何年か前、某山岳会の会員10名ほどが同じ経路を辿り、テイ沢から牧場の山小屋まで来るのに苦労して、大分時間をかけ心配したことがあった。確かに「ラッセル」という言葉は大袈裟でも、厳冬期の状況がよく分かっている者としては、あの林道をツボ足で歩くには20年は年を取ってしまったと感じている。
 
 ツボ足と言えば、牧場の管理人になった最初の冬、Kさんと初めて雪の法華道を上がったことがあった。その時は二人ともツボ足で、小屋に1泊して同じ道を下るつもりが手前の御所が池へ向かう道に誘い込まれ、そのまま道なき道を強行して、出発点の諏訪神社よりか2㌔ほど下の山室川に出た。川を渡るのを怖がるHALが一緒だったから、靴を脱ぎ裸足になって犬を抱いて渡渉せざるを得なかった。
 山椒小屋跡を過ぎて古い林道を進むと右手に大岩があり、その印象的な目印に出会う前に、それより手前の御所が池に通ずる道を下ってしまったという迂闊さ、そのお粗末な次第に、わがことながら腹が立って仕方なかったことは忘れていない。
 その時のツボ足の苦労や、山室川の水の冷たさなどはもう記憶にないが、まだ山スキーはおろかスノーシューズも持っていなかったころのことで、今では歩くよりか自転車の方が楽だということを知ってしまったように、それらに頼らざるを得ない。
 
 昨日のPH、最初が上から1番目(9番目)、次が4番目(7番目)に当たる丸太橋で、3枚目は北原新道の登り口、最後は牧場ゲート南門、括弧内は丸太橋を下から数えた場合。

 赤羽さん、黒曜石はあれを1千度だか2千度で焼くと何倍にも膨れ上がった白い塊になることを知ってますか。和田峠の近くの採掘場で実際に目にし、自分でも試したかったけれどできなかったこと、またあの峠の近くにはザクロ石(ガーネット)が見付かる沢があり、岩石採集用のハンマーを買ってもらい嬉々として出掛けて、そこそこの結晶を見付けたことなどなど、懐かしい少年時代の記憶です。
 本日はこの辺で。
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