入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’22年「冬」(33)

2022年02月14日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

Photo by Ume氏

 雪掻きに出ろという連絡がまだ来ない。今朝はそれが気になって4時過ぎには目を覚まして、5時半ごろからすでに昨夜のうちに誰かが雪掻きしてあった家の北側の坂道を、もう一度手を加えておいた。今冬はすでに1回やっている。やはり、雪の多い年ということだろう。

 たまにする雪掻き、これは相当の体力が要る。連日のように悪戦苦闘を続ける雪国の人々をテレビなどで目にすると、本当に同情するし、その根気強さに頭が下がる。しかも、年配の人、高齢者が多い。
 かつて、その勁い滑り方に憧れ、毎冬通った白馬地域のスキーの指導員Sさんも、何年か前に雪下ろし作業中に屋根から転落して死亡した。あれだけ小さいころから雪に親しみ、雪下ろしもずっと続けてきたはずなのに、それでも、そういう事故が起こる。
 以前に、やはり北信の豪雪地へ行って、周囲の山ばかりかどこもかしこも雪に埋もれてしまった集落を見て、言う言葉をなくした。ポツンポツンとある家々の屋根が、まるで雪の原に浮いいるかのように見えていた。そこに暮らす人々は、生まれてからずっとそういう冬を過ごしてきたわけで、それが何代も続くその集落の歴史でもある。
 恐らく、冬眠さながらの暮らしに耐えていたのだろう。それでも、車のない時代は歩けさえすれば良かったのだから、かんじきを履いて移動できる細い雪道を確保できれば、それ以上の必要はなかったのではないだろうかと、雪掻きに関しては皮肉なことを考えてしまう。
 半世紀以上も前、毎冬よく行ったスキー場のある麓の集落内の道も除雪などしてなかった。スキー場までは皆が1㌔近くをスキーを担ぎゾロゾロ歩いた。それが当たり前だった。スキー場ばかりか雪山も、ツボ足で深雪に耐えた。
 今の社会では、たまに降る20㌢程度の雪でも、車が走れなければ何も始まらない。だから、まず除雪車が出動する。雪に対してはそれだけ人も社会も脆弱であり、「記録的な大雪」などが都会に降ると、大ニュースになる。
 そうそう、信じられないような話だが宿のおばさんが、雪の中をスキー場まで電話の取次ぎに歩いて来てくれたこともある。あのころは、それくらい人々は雪と暮らす生活に勁かったし、受容していた、と言ってもいいのか・・・、とにかく今からすれば実に思い出すこと多く、懐かしい時代だった。
 
 雪掻きの連絡は来なかった。今週掲載の写真はどれもPhoto by Ume氏です。お楽しみに。本日はこの辺で。
 
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     ’22年「冬」(32)

2022年02月12日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 昨日に続き、きょうもクマの話。
 
 知り合いの中にはクマに襲われた人もいる。かと思えば、遭遇しても、無事だった人もいる。しかも、その時は仔グマを連れていたという。昨年、今年のことは知らないが、西山(中ア)で有害駆除のくくり罠にクマがよく掛かり、一時は駆除を見合わせたという話も聞いた。



 こういう本も読んでみた。舞台が北海道であり、対象のクマはヒグマだったような気がする。この本にも書いてあったと思うが、クマに襲われたら逃げるなとか、背中を見せるな、などとはよく聞く。しかし、咄嗟の場合にそれが誰にでもできるだろうか。かなりの胆力が要るはずだし、それでも、襲われることがある。
 クマにも色々と性格の違うのがいるから、対処の仕方は一概には言えまい。かつては「死んだふりをしろ」だったが、それでも危害を加えられ、この頃はそれは聞かれなくなった。偶々そうした人がいて無事だったから、それが万能の対処法になってしまったのだろう。
 以前に罠に掛かった、雄鹿ではなくて、雌鹿から攻撃を受けたことがあった。鹿にもそんなのがいる。クマだって当然そうだろう。
 
 ではどうするかだが、まずはクマに襲われた時の情報をもっと詳しく出してもらいたい。クマの生態を少しでも多く知ることによって、人とクマとのより無難良好な関係を持つことができるのではと思うが、どうだろう。最近はテイ沢を歩く人の多くが鈴を持つようになった。クマの目撃情報も、事故の話も聞かないから、予防の効果はそれなりにあると信じたい。
 仕事では大概熊スプレーを持つようにしている。これも、実際にクマに使ったことはないが、凶暴な雄牛に試し充分な効果があった。事前によく練習をしておく必要はあるが、風向きなどに注意して使えばクマにも役立つだろう。仲間内で1台でもあれば安心できるはずだ。牧場内の監視カメラにクマが写っていた場所では、車の警笛・クラクションを鳴らしてから作業をすることもある。
 アラスカでは森の中へ入る前に、拳銃を空に向けて撃つという話を現地で聞いた。しかし、その銃声がクマを刺激し、興奮させるからやめた方がいいと言う人もいた。日本でも軽井沢では、犬を使ってクマが里山に出てこないような対策を実施している。こういう活動をもっと発信してもらえば、人間ばかりか、クマも喜ぶだろう。
 最後に、現在のクマの「学習放獣」というやり方、あれは却って人を怖れないクマを増やすことになりはしないかと案ずるが、さてどうだろう。
 本日はこの辺で。明日は沈黙します。
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      ’22年「冬」(31)

2022年02月11日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 昨日1日中降った雪が、春のような明度の高い日の光の中にどんどんと融けていく。すでに黒い地表の現れているところまである。遠い昔の小学生時代、4,5日くらいの寒中休みの記憶があり、2月が最も寒い季節とずっと思っていた。暦の上ではすでに立春も過ぎ、この頃では温暖化の影響を受け、厳冬期の期間も短くなったのだろうか。



 この時季、クマは冬眠中ということになっている。それでも雌クマは、この間に出産すると聞いているから、安気気楽に眠りを貪っているだけではないようだ。また、雄クマの中には冬の間でも穴から抜け出し、そこらここらを徘徊する落ち着かないクマもいると聞く。
「錯誤捕獲」と言うのだが、有害動物駆除の鹿を捕獲しようと仕掛けたくくり罠に、クマが掛かることがある。クマは有害動物ではないから、狩猟期間外に捕獲目的の対象でない動物を捕らえた場合には、こういう言い方をするのだと理解している。
 一般の感覚からすれば、鹿よりクマの方が余程有害のような気がするが、クマは有害動物には指定されていない。それだけ鹿の頭数が増えて農業の被害が拡大したからで、それを牧場で目の当たりにしているだけに納得している。
 
 これまでに、クマの錯誤捕獲の現場に立ち会ったことが3回ある。2回は牧場内で、全くの予測外だった。確かきょうの写真が自分の罠で捕獲した初めてのクマで、次は親と仔、それに近くにいたもう1頭の子熊だった。そして3回目は牧場の外だった。
 牧場で働く以前は、ツキノワグマはヒグマと比べれば凶暴性は低く、人を襲わないということを前提にして、山でもあまり気にしたことはなかった。実際、出会ったことも一度だけ、冬の上高地で遠くにそれらしきを見たことがあったが、その時の記憶はそれだけだから、あまり意にも解さなかったのではないだろうか。
 あっ、西山でも元狩猟犬の小太郎が追い出したクマに遭遇したことがあった。目の前に突然現れたクマはまるでポマードを塗ったように、テカテカに光っていて驚いた。幸い、向こうが逃げていってくれた。
 それが、牧場で働くようになって、やはり3回目撃している。これらはどれも牧場の外で、一度はテイ沢へ行く時、その次は帰宅の途中の池の平を過ぎてで、いずれも軽トラからだった。もう1回は半対峠から下りかけた時、小黒川の川床にいて少し緊張した。

 クマがいても少しもおかしくない、と思っている。問題は、人に危害を加えるのかどうかという点で、そうでなければ鹿よりも、害はない。その点が問題であり、対応の難しさだと思う。(続く)
 本日はこの辺で。
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     ’22年「冬」(30)

2022年02月10日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 2泊3日の牧場訪問、それも4時間少々の登りと2時間半の下りを主に、映像を繰り返し再現するようにして思い出し、冬ごもりの無聊の日々を過ごしている。
 
 一歩いっぽを踏みしめて歩く。まだ多少は雪に足を捉えられながらもこの辺りまで来ると、写真では分からないと思うが深雪から徐々に解放され、かなりの傾斜が続いていても登っていいくことがそれほど苦にならなくなる。というよりか、登行を楽しむ余裕さえも出てくる。風雪に晒され氷結した牧柵を超えさらに進むと、東のこんもりとした雷電様の森を省いて、遠くまでほぼ全方向に視界が拡がる。権兵衛山、入笠山、八ヶ岳、北ア、中ア・・・、さんざん見慣れた眺めである。その中でも特に緩やかに起伏する霧ケ峰を目にして、いつものように一息つく。もっと標高の高いアルプスの銀嶺よりか、なぜか隣人のような親しみをあの車山と、そこから西に裾を引く白い丘陵に感じて気が安らぐ。

「山小屋の灯」という歌がある。以前からこの歌の舞台は霧ケ峰ではないかと思っていた。実際に現地で歌の歌詞にあるような風景を見たわけだはないが、暮れゆく白馬や茜色に染まる穂高が見えるとなれば、あの広大な草原のどこかにある山小屋ではないかと想像していた。記憶は曖昧ながら、この詩はシベリヤに抑留されていた作詩者、米山正夫が遠いふる里を偲んで作ったと何かで読んだか、聞いたような気がする。が、もう確かなことは分からない。
 念のためPCで調べてみたら、霧ケ峰の八島湿原の付近にあった古い山小屋が候補になっていて、その記念碑もあるようだ。ただ、観光目的による牽強付会の可能性も多いにあり、その場所からはそんな風景は見えないという意見もあった。本当のことは作詞者本人に聞くしかないが、それもすでにかなわぬ話だ。
 牧場からならこの歌詞にうってつけの場所があり、間違いなく穂高も白馬も、歌詞の通りに見える。そこにあったら申し分ないが、ない物ねだり、そうまで言えば嗤われる。いや、将来のことは分からないから、これもまた午睡の夢物語にしておこう。
 歌の生まれた場所は、抑留中の作者の胸の中にあった懐かしい山小屋であり、灯であったのだろう。幸い偲ぶ人もいたようだし、と考えて、詮索は止めにした。

 朝から雪が降っている。かなり積もりそうだ。里がこのくらいだと、上はもっと積雪が予想される。古道に残した踏み跡は消えてしまうかも知れないが、それならそれでもいい。この冬、少なくもこの古道を一度は歩き足跡を残せたし、3月の初旬にはまた行くつもでいる。
 これから集落の雪掻きだと、本日はこの辺で。
 
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     ’22年「冬」(29)

2022年02月09日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 牧場3日目(2月6日)、山を下りる日だから少し早めに起きるつもりが、目が覚めたら7時を過ぎていた。朝方の4時ごろ、寒くて一度目が覚めたからだろう。毛布2枚と1枚の軽い布団だけでは安眠というわけにはいかなかったようだ。

 8時半、出発。状況が分かっている御所平峠を経由するか、牧場を見回って帰るか迷ったが、結局、牧場管理人であることを理由にして、深雪と急登を覚悟の上で第1牧区へ上がることにした。天気は悪くなかった。前夜に降った雪がコナシや白樺の枝を飾り、その粉雪がわずかな風に舞い上がると、権兵衛山の上に昇った朝日に輝き、周囲の白い世界はさらに幻想的な美しさを見せてくれようとした。
 第2牧区の新雪の斜面に足を踏み入れると、予想以上に潜った。だからと言って、引き返すわけにもいかない。根気を出して登っていくほかなかった。登路にした左右から斜面が落ちてくる凹んだ部分は上部へと延びていて、いつか牧場がもっと観光目的にも利用されるようになったら、歩いて登って欲しい空想の登山道でもあった。
 そんな日のことを思い描きながら進んでいくと、第1牧区の牧柵が見えてきた。有難いことに、予想と期待通り、雪の表面が風と太陽の光で硬く締まり、それまでが未舗装の山道だとすれば、まるで高速道路を行くような快適な登行に変わった。
 当然周囲の大展望も目にした。冬山の爽快な気分も味わった。しかし、それよりなにより、雪の原を存分に歩けることを喜んだ。雪に埋もれた塩場も見た。世話の要った倒木処理の跡も歩いた。そして再び深雪の林を抜けて牧場の終わる場所に着いた。
 意外なことに、牧柵は僅かだが上部が雪面に見えていた。ということは、それが雪に隠れていたこともあったのだから、もっと大雪の年があったのだ。そんな深雪の中でも、後を付いてきた健気なHALのことをまた思い浮かべて、その苦労が伝わって来た。死んだ愛犬が不憫であり、愛おしくもあった。

 牧場から自分の残した踏み跡の残る古い林道にでた。そこからは、ただ淡々と歩けばいいだけで、そうした。行きは山椒小屋から2時間半近くかかったが、牧場超えをしたにもかかわらず帰りは1時間足らずで通過した。
 気楽な下降に、「はばき当て」を過ぎてスノーシューズが外れた。ゴムのバンドが切断して、応急的な処置をしてあった箇所だった。また、履き心地、歩きやすさを犠牲にして、軽量化を図った化学繊維の木靴のような登山靴に足の傷が疼いた。登りは厚手の脱脂してない古いセーターだったが、下りはゴワゴワした防寒衣を着たため窮屈な思いをする等々と、安気さのせいでか幾つかの不満を感じ、それでも車を停めてあった「万灯」へは11時ごろに、約2時間半をかけて古道を帰って来た。
 本日はこの辺で。
 


 
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