この写真も散歩で通る開田の道の一部。日が射さず、雪の残る冬枯れの風景は寒々しい。ここで、右下にちょっとだけ写っている道に折れ、畑中を走る迂回道路へと出る。夜間の場合、歩行者がいることを知らせるため、車が接近する前に手持ちの懐中電灯を点灯するようにしている。通行量はそれほど多くない。
ここより300㍍ほど歩いて、山の中の道を瀬澤川の流れる渓へ下り、隣の「八つ手」という集落の端を掠めて先日紹介した峠に至る。
冬ごもりの日々、きょうのように今にも雪が降ってきそうな天気では外に出る気などしない。部屋を暖かくして、モンゴルへでも行こうとしている。もちろん、本の上でだが。
すでに何度も呟いているように、以前は読んだが、もう小説は読まない。落穂ひろいでもするようにあの時代、この時代へと旅をする。どれも気儘な旅であり、車窓の景色はたちまち飛び去り、心揺さぶった風景、情景は記憶の奥に沈み込み、再浮上することは滅多にしかない。しかし、それでもいい。
このごろは、以前に読んだ本を読み返すことがある。昔からの悪い癖で、それらの本には決まって読みながら気になる箇所には傍線を引いたり、異論、反論めいたことを書き走ったりした箇所が目に付く。中にはかなりの見当違いや、誤読している場合もあったり、なぜわざわざこんな箇所に傍線を入れたのかと不思議に思うこともある。
当人でもそんなふうに思うくらいだから、そんな妙な手垢の付いた本を人に貸すことなど気恥ずかしくてできない。それでも、本人が読むのはもちろん構わないし、むしろ、昔の自分に出会えたり、懐かしい場所を再訪したような気分になれる。いや、忘れてしまっていて、初めて訪れた場所のように思うことも多い。
本音を言えば、この独り言も、初期のころに考えていた目的地とは全くと言っていいほど違う場所へ来てしまい、当惑している。しかも「遊子は帰還を忘れ」、いまだに見知らぬ土地を彷徨い、あっちへ行き、こっちへ行きを繰り返しているような有様。
その間に呟いたことは、古い本に走り書きした感想などよりか余程恥ずかしいはずなのだが、なぜかまだ続いている。友人の奥方で、かなりのはにかみ屋のくせに、カラオケとなるとそれほど上手とは思えないのに、飲み屋の見知らぬ人の前でも平気で歌いたがる人がいた。
そういう人と、これについては同じことなのだろうか。
本日はこの辺で。