里は雨だったが、上は雪だったかも知れない。経ヶ岳の山腹を見るとかなり微妙なところで、少なくも法華道の登り口、諏訪神社や「万灯(まんどう)」辺りは雪ではなく、雨だったような気がする。
もしそうであれば、年末に登った時と同じように中途半端で厄介な雪道を歩くことになるだろうから、当分はあの古道のことなど忘れて、炬燵の虜囚の身に甘んじていた方がいいだろう。
そういう日々にあって、朝風呂に入りながら面白い本を読むのが楽しみの一つだった。ところが、これがなかなか上手くいかない。湯船から上がる湯気ですぐに眼鏡が曇ってしまい、読み進めたくても長くは続かないのだ。曇り防止の方法ぐらいは知っているが、それがあまり効果がない。
それと、今使用している眼鏡は視力に合っているのかもよく分からない。もう一つあるけれど、これは前回上に行ったときに持ち帰るのを忘れてしまい、今ここにはない。その眼鏡だって値段ばかり高かっただけで、およそ信頼のおけないシロモノで、検眼してくれた素人のような女性にはいまだ不信感を持っている。
そもそも運転免許証は、以前は大型車運転時は「眼鏡使用」だったが、今はその条件も付いていない。もしかすれば遠近両用の眼鏡ではなくて、近眼用の眼鏡でも用が足りるのかも知れないが、眼科医ならその辺のことを教えてくれるとしても、商売優先の眼鏡屋にはそれを期待しても無理のようだ。
当面、朝の寒いうちは身体を暖めるだけで我慢していれば、そのうちには本などなくとも「いい湯だな」の気分になれるのかも知れない。
ついでながら、この独り言を呟いている今、眼鏡は使用してない。
まあ、この程度の不調などをぼやいていては、もっと身体に問題がある人に怒られてしまうだろう。今の"日向ぼこ気分"が続いていくれれば有難く、文句なしとしなければいけないと思う。
よく身体のどこそこがどうしたこうしたと綴る90歳を過ぎた高名な作家だが、実は下着は自分で洗濯するのだと偶々手にした某週刊誌上で白状していた。それもどうかと思うが、書斎に吊るして喜んでいたから、本人にとっては遊びのようなものらしい。
元気であるということはそんな他愛のないことも可能で、かつそれを文字にしてかなりの稿料を得ることができる。しかし、遣い道などあるのだろうか。
本日はこの辺で。