岐阜/医大生が指導する明光義塾長良教室&芥見教室 Akamonゼミナール

医大生が個別指導する全国でも珍しい塾が明光義塾長良地区、芥見地区に登場。山県市、美濃市、関市からも通塾されています

★郡上踊りにひきこもり男が総理を目指す

2022年05月29日 13時52分57秒 | 日記

★作品集Ⅱ

 昨年の春以来書き溜めていた作品についてお話をしていきたいと思います。私は十数年前からライブドアでブログを書いていましたがYouTubeが掲載できないことでその頃併用していましたSo-netやFC2などは止めてgooでお世話になって今日に至りました。その間色々株式投資の推奨銘柄の評論などを踏まえて書いていましたが本格的に「岐阜/医大生が指導する明光義塾長良教室&芥見教室」は楽天ブログも参加致しました。そういう中で自分のしたいことは何だろうといつも拘りを持って現在に至っていますが数年前から再び物書きに戻ってしまいました。戻ってしまったという事は昔は書いていたという事です。

 もうずいぶん昔、私が初めて小説を書いたのは高校2年生の時です。どこの雑誌社に応募したのかも忘れてしまいましたが確かに書いて郵便局から送った記憶があります。元々は短歌の世界が好きで石川啄木に憧れました。私の生まれ育った愛媛県は正岡子規の影響でどこの小学校でも中学に至るまで俳句の世界です。毎日のように俳句を作りました。しかし、俳句は5・7・5の十七文字です。もっと奥深く書き込んでいきたいと思い詩の世界ではなく単純に短歌の世界に足を踏み入れたのは自然な流れだったのです。東京の「あさがお」という同人誌に参加をしていました。受験生になっても勉強より雑誌に歌が掲載される喜びの方が嬉しかったです。この会は大学1年生まで続いたのですがもうこの三十一文字では満足できなくなり結局小説を書くようになりました。単純に表現の仕方が突き詰められるという事で書き始めたのです。大学では当初は吹奏楽部に入りましたがこれは籍を置いただけで1日で辞めました。当時の学生時代の応援団吹奏部は相当にヤバイ存在でした。寮生活をしていましたが寮長が副団長という事もあって辞めた方がいいからと言ってその場で処理してくれました。余程軟に見えたのかもしれません。

 大学に入ったものの授業に出ずすることもなく街を徘徊することもつまらなくなりトタン屋根のある部室を覗いてみました。そこには一人でポツンと本を読んでるM君がいました。彼は学生運動の幹部になっていくのですが私はそこで本の話をするでなく雑談に時間を潰していました。部屋はベニヤ板で仕切られ土間は土でした。雨が降ると屋根がトタンですので大きな音がするし水は床を流れ、少し目を移すと一升瓶んが何本か転げていました。そういうところから私の小説は始まりました。当時の文芸部は10人程でしたが杁中から八事の新館に移動する過程だったのですが私が2年生の頃には60数人の大所帯になっていました。このことは昨年刊行した「ワインと檸檬」の中に出てきます。
 やがて学生運動が非常に激しくなり私はあまり関心がなく無気力無関心の方でしたから止めるべくして退部をしたのは大学3年生の時でした。3年生までは授業には出席しないが部室には毎日顔を出していました。それも4年になって部も止めると何もしなく大学に行くことすら必要性を感じなくなりました。ただ卒業を待つという区切りの問題だけがあったのです。ひたすら小説を書いていました。随分模写もしましたが面倒になり自分で書いてしまう方が多かったです。

 卒業と同時に住宅メーカーに入社をして四国高松に配属されましたがそこで知り合ったのは「瀬戸内文学」でした。私は学生時代ペンネームは槍沢新太郎という名をずっと使用していました。いまだ覚えてくれる方が多くいるのは嬉しいですがこの名前は石川啄木の小説「二筋の血」という中の主人公の名前です。瀬戸内文学に入っても同様にこの名前を使用していました。そこで発表した「明日の流行」が文学界同人誌評の小松伸六先生の目に留まったという事で非常にありがたかったです。今でもスマホで検索して頂けば出てくるのですからネットの世界は恐ろしいです。その小松先生に賞賛された私が何故文学を辞めるという皮肉な結果になってしまったのは時代は純文学、大衆小説の大まかに二種類だったのです。当時は第三の新人の私小説の時代です。遠藤周作、吉行淳之介、小島信夫、安岡章太郎など現実と随分かけ離れてしまうのですが私もその中でもがき苦しみ書いていましたが小松先生曰く「中間小説のツボを心得た作品」と非常にお褒めを頂きました。しかし、私が目指したのは中間小説ではなく純文学でした。純文学以外は文学でないとまで言い切るほどのめり込んでいたのです。結局そのことがきっかけで文学の世界から離れてしまいました。

 そして何十年か経ちました。
 私の生活もどんどん会社と共に大きく変貌をし世の中はバブルの時代を迎えました。あの時小松先生や編集部の人から書くように言われたのですがそれがその時代を象徴するように中間小説の時代が来ました。タラレバは言いたくありませんが続けていたら作家として続いていただろうかと疑問に思うのです。しかし、あの時はあれが精一杯時代に反逆的な素直な自分を認めていたいと思います。だから何も後悔はしていないのです。

 学習塾は会社勤めの終わりごろから体調が悪く体を壊し結局辞めることになりました。一時的に身内のエステサロンに籍を置きましたが理由あって辞めて自分で学習塾を始めることになりました。岐阜に来て約三十年近くなります。実家も処分し家を建て親戚もできそれぞれの生活に時代は進んでいきました。私はそういう中で幼馴染の同級生で画家がいます。彼とは悪友で芸術や趣味も合い話はいまだに尽きないのですが残るもの残らないものがありますが小説などはただの紙切れ同然でシュレッターで処分されて終わりです。駄作だからいいかなとずっと予選落ちした時に思っていましたが昨年あたりから文芸社や幻冬舎などから誘いがあり形にすることはある意味意義があるのではないだろうかと思い始めました。小説がつまらなく駄作であったとしてもひとつの時代を走った事実を未来に残しておいてもいいかなと思い始めたのです。結局昨年からそういう意味で作品を刊行するようになりました。

 今回の作品は「伊東住雄作品集Ⅱ」で短編166枚の作品です。「郡上踊りにひきこもり男が総理を目指す」と「朝子は鵜飼の篝火にピカソの光を見た」の二編です。個人的には後半の作品が好きです。多くの不条理の世界に立ち向かう若者の姿は多様性を求める現代の中で古風的な古典的な考え方かもしれません。しかし、最後の作品で朝子が鵜飼の篝火と心象風景に残っていた手力雄神社の火祭りの交差する姿を見てピカソのキュビズムの世界を見たと言い一つの解決を図ることになる。最初の郡上踊りについては社会から断絶され挫折し姓名まで変えてひっそりと田舎で暮らすが十年後に知り合った彼女と別れることになり、引きこもりから立ち上がり踊りの中で最後はクライマックスを迎えることになりますが不条理の世界に慣れてしまったしまった我々は今だこそ自分を見つめる時期ではないかと思います。
 この短編作品は作品集Ⅰ、Ⅱと基本的に話は異なりますが底辺に流れているものは同じです。コロナ禍の中で体調を崩される方が多くなりました。それでも時間は立ち止まらなく受験日は近づいてきます。そういう不条理の世界は身近にゴロゴロと転がっています。夏休みなど暇な折良ければ読んでみてください。

<今日の言葉>
「自己を過大評価した瞬間から、思考の硬直が始まる」
             野村克也

石原詢子/*上の*

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長良教室 058-210-1730
芥見教室 058-244-0170


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