■敗戦から67年を経過した昨日の終戦記念日の午後7時30分から8時43分迄、NHKスペシャルで放送された「終戦 なぜ早く決められなかったのか」を見た人も多いと思います。NHKがいつもこのくらいのレベルの内容の番組を制作するのであれば、受信料の支払いも苦になりません。
↑ソ連の対日参戦は不意打ちではなく、事前に、4か月前に日本は情報を得ていた。ならば、1945年6月22日の御前会議で戦争終結を決断していたら、原爆投下もシベリア抑留も北方領土問題も中国残留孤児問題もあり得なかった。現代史を揺るがす真実に納沙布公園にある「四島のかけはし」のモニュメントは今、何を思う。2007年12月26日撮影。↑
驚きました。1945年2月4日から11日にかけてクリミア半島のヤルタで行われた米国のルーズベルト、英国のチャーチル、ソ連のスターリンによる首脳会議で、ソ連がドイツ降伏の3カ月後に対日参戦するというという密約が交わされたことについて、同年の4月に英国に駐在していた日本の海軍武官が東京に伝えていたことを示す暗号解読文書が、英国の公文書資料館に存在するというのです。
確かにナチスドイツは1945年5月8日にフランスのランスで降伏文書に調印し、翌5月9日に首都ベルリンで批准手続きとなる降伏文書調印を行った事により降伏しました。したがって、ヤルタ会談の密約に基づいて、その90日後の8月10日にソ連は対日参戦したことになります。
しかも、ヤルタ会談でソ連参戦が決まったという情報は、欧州に駐在していた他の武官らからも1945年4月以降も、5月、6月と東京に重ねて伝えられていたというのです。
■番組では、このことについて、現代史の歴史研究家や外交専門家らが、日本の現代歴史観を変える重要な証拠書類の発見だとして、なぜ我が国は、ドイツ敗戦後も本土決戦と称して、国民を無駄死にさせたのか、なぜ我が国は戦争をもっと早い時期に止められなかったのかについて、当時の軍部や外務省などの生前の証言資料なども交えて検証しつつ、いろいろな観点から評価や分析が加えられ、討議されました。
既に本土が連日猛空襲に襲われ、沖縄に米軍が上陸し、ドイツが降伏したにも関わらず、重大情報は共有化されないまま、貴重な時間を浪費してしまったのか、戦争終結の機会がせっかく到来しながら、知り得た情報が生かされず、会議の中で、あるいは天皇の前で、なぜ本音をぶつけ合って意見が言えなかったのか。無能な指導者に加えて、外務官僚や、やはり官僚である参謀らの弱気な対応が、敗戦までの4ヶ月間に60万人以上の日本人の命を失わせ、戦後のシベリア抑留や北方領土問題など、現在に至るまで日本国民に与え続けている艱難辛苦は、そうした亡国の指導者や官僚らによって作り出されたことが浮き彫りにされました。
↑ウラジオストクの要塞博物館に展示してあるソ連の1945年8月9日の対日参戦直後からミズーリ艦上での同年9月2日の降伏文書調印までの3週間におけるソ連軍の作戦行動ルートを示した地図。2010年8月22日撮影。↑
■さらに、驚くべきことは、ソ連の対日参戦を知りながら、当時の官僚は、戦後も一貫して「対日参戦については知らなかった」とシラを切り、「ソ連の参戦は、ソ連が一方的に中立条約を破り、不意打ち的に攻め込んできた」として、自分たちの責任を終戦後もずっと棚上げしてきたことです。そして、北方領土問題に多くのエネルギーを割いているのです。
1945年2月に米英ソ三国の首脳により行われたヤルタ会談は、第2次大戦が終幕に入る中、ソ連の対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなった会談で、ヤルタ体制とも呼ばれています。
時期的には1945年1月にポーランドを占領したソ連軍(赤軍)がベルリン付近に達しつつあり、西部戦線においてはアメリカ・イギリス等の連合軍がライン川に迫っていました。
ヤルタ会談の直前の1945年1月30日~2月3日には、ヤルタ会談の事前打ち合わせとして米英二国の首脳がマルタ島で会談しています。こちらはマルタ会談と呼ばれるものです。
■ヤルタ会談の結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定が結ばれ、米英仏ソ四カ国によるドイツの分割統治、ポーランドの国境策定、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。
併せて米ソの間でヤルタ秘密協定が締結され、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇も決定し、現在も続く北方領土問題の端緒となりました。米国が北方四島問題について全く関心がないのは、この時、ソ連と密約していたためです。
また、戦後の発足が議論されていた国際連合の投票方式について、後の国際連合常任理事国となる米英仏中ソ五カ国の拒否権を認めたのもこの会談でした。
米国としては、ドイツ敗戦後も日本が徹底抗戦を続けることが予想されたため、太平洋戦争での自国の損失を抑えるべく、日本と日ソ中立条約を結んでいたソ連に対して、条約破棄と対日参戦を促すことに比重を置いた会談でした。
■しかし、日本はヤルタ会談の密約で決まったソ連の対日参戦を、ヤルタ会談の2カ月後には英国駐在武官からの暗号による報告文書で知り得ていたのに、ぐずぐずと降伏決定を先送りにしてしまいました。そして、1945年8月9日にソ連に宣戦布告を許すという最悪の結末に直面して、ようやく、その翌日の8月10日にポツダム宣言に示された無条件降伏の受諾を連合国側に通告したのでした。
結果的にソ連は、東京湾でのミズーリ艦上で行われた降伏文書調印をもって戦争が正式に手続的に終結するまでの僅か1カ月足らずという非常に短期間に、日露戦争で日本の占領地となっていた南樺太と千島列島を北方四島もおまけに付けて、効率よく奪還できたのでした。
■もちろんソ連は米国の要請によって対日参戦をしたわけではなく、ソ連自身も、対ドイツ戦で優位にたった時点で、日露戦争で奪われた南樺太と千島列島(北方四島以外の)の奪還を目的に、1944年の後半には、米国にその意思を伝えていたとされています。
ソ連がドイツ戦に優位な立場に立てたのは、日ソ中立条約のためではありません。疑り深いソ連が、たとえ中立条約(1941年4月13日署名、同25日発効)を日本と結んだとしても、満州の関東軍がいつまたノモンハンの時のように攻めてくるか疑心暗鬼だったからです。
実際に、当初、ソ連は日本の提案に応じませんでした。1940年9月27日に日独伊三国同盟が締結されていたからです。しかし、その後、ソ連は、ドイツの対ソ侵攻計画を予見したことから日本の提案を受諾し、1941年4月13日調印しました。
■そして、同年11月には、ソ連は極東に配備していた部隊を西部へ移送し、同年12月のモスクワ防衛戦に投入しました。ドイツ軍は、シベリアで厳冬での戦い方を知り尽くした極東部隊の支援を受けたソ連軍の反撃により、モスクワ前面で100マイル近く押し戻され、1941年中にソ連崩壊を狙ったヒトラーの作戦は、失敗に終わりました。
さらに1942年6月28日から- 1943年2月2日にドイツとソ連が戦ったスターリングラードの攻防戦でも、シベリアの兵力を援軍として投入できたソ連が圧勝し、欧州戦線の戦況を大きく転換さたのでした。
■極東で対峙していた日本の関東軍の動きについてソ連が抱いてきた疑心暗鬼を払しょくしたのは、日本にいたソ連のスパイが1930年代から1941年9月まで8年間に亘り、もたらした情報によるものでした。
とくに、1941年9月、御前会議で日本軍の南進政策が決定されたことを知ったソ連が、上述の通り、シベリア兵力を西部戦線に安心して投入できたことが、欧州での戦局を大きく転換したのでした
このスパイ事件は、リヒャルト・ゾルゲを頭とするソ連のスパイ組織が日本国内で1930年代から諜報と謀略活動を行ない、1941年9月から1942年4月にかけて、そのゾルゲをはじめメンバーが逮捕されたもので、中には、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実らもいました。
↑ゾルゲの出身地のアゼルバイジャン首都バクー市内にあるゾルゲ公園の記念モニュメント。ゾルゲの顔の特徴をデザインし、さしずめ「壁に耳あり、障子に目あり」という戒めを表している。2004年1月19日撮影。↑
■ゾルゲ事件の詳細やゾルゲの生立ちは、この記事の最後に参考として記載してありますが、昨晩のNHKスペシャルで報じた、ヤルタ会談のソ連参戦の密約について、ソ連の台頭を懸念した米英が、それとなく情報をリークし、日本に早期戦争終結を促したという背景があることも含め、1945年4月に日本の駐英武官が東京にヤルタ会談でのソ連参戦の密約内容を東京に伝えていた事実が有ったことが分かったことは、大変な驚きです。
しかもヤルタ会談での密約に基づき、1945年4月5日にソ連は、翌年期限切れとなる日ソ中立条約をソ連は延長しないことを、駐ソ連の日本大使を通じて日本に通達していました。この時の通達では、1946年4月5日まで条約の残存期間は残ることになっていましたが、在外の駐英武官の東京へのソ連対日参戦情報は、これとほぼ同時期に伝えられていたことになります。
↑ウラジオストク市内アムール湾を望む丘の上にある要塞博物館は、日露戦争前に作られた要塞をそのまま博物館として利用。お昼には時刻を知らせる「正午の空砲」を鳴り響かせるのがこの移動式カノン砲。↑
■ヤルタ会談の密約で対日宣戦布告が約束されていたソ連は、日本がまだ降伏しないことを幸いに、1945年7月17日から8月2日までベルリン郊外のポツダムに米英ソ三国首脳が集まり行われたポツダム会談で、日ソ中立条約の残存期間中であることを理由に、米国とその他連合国がソ連政府に対日参戦の要請文書を出すことを求めたのでした。
こうして、1945年7月26日にポツダムで日本に向けて発せられた無条件降伏に関する宣言に至っても、日本はまだ無用な戦争をやめることができず、8月6日のヒロシマ、同9日のナガサキへの原爆投下、同じく8月9日のソ連対日宣戦布告を経て、8月10日になり、ようやくポツダム宣言を受諾する旨連合国側に通知したのでした。
↑日本軍から押収した武器も展示してある。
■このように、現代史観に大きな影響を与える新たな事実が判明しました。すなわち、ソ連が終戦末期に参戦することについて日本は事前に知り得ていたという事、日本政府は「降伏」という言葉を使わずに結果的に「終戦」という形で、外圧に翻弄されるまま、最後まで自主的に戦争終結を決断できなかったことが明らかになったのでした。
筆者はシベリアを訪問した際に、たくさんのロシア人から質問を受けました。「なぜ、日本は第2次大戦でドイツと組んだのか?」と。第2次大戦におけるロシア人の戦死者・犠牲者は、日本人が約310万人と言われているのに比べると、一桁大きい数字となっています。その大半は、ドイツとの戦争で失われました。ロシア人にしてみれば、なぜ日本はロシアを挟んでドイツと手を結んだのか、という思いがよほど強いのでしょう。
一方、日本としては、広大な太平洋での米軍との洋上戦闘や、広大な中国での地上戦で手一杯で、とてもソ連と対峙していられない事情があり、5年間の有効期間としてソ連と結んだ中立条約を、突然ソ連の裏切りで破棄されて宣戦布告されたのは理不尽で有り、ソ連の不意打ちを突いたやり方は国際ルール違反だと戦後、教えられてきまました。しかし、どうやらこの国の指導者や官僚の失政を隠すためにそのように教え込まれてきたのが真実のようです。
今回の番組で視聴者が認識したことは、1945年4月以降、同6月までに駐英武官をはじめ複数の欧州駐在武官からソ連の対日参戦情報が東京に伝えられ、1945年6月22日の天皇主催の会議でも、そうした連合国側の情報が上奏されないまま、この国の民が、悲劇の結末に突き進まされていたという真相でした。
↑対空機銃に乗って遊ぶ現地の子どもたち。↑
■以上のように、昨日の終戦記念日に放送されたNHKスペシャルでは、1945年の4月、駐英武官から暗号文書でソ連対日参戦の情報が東京に伝えられた時、戦争の帰趨はとっくに決まっていたのに、なぜもっと早く戦争を終えることができなかったのか?ということを掘り下げた、質の高い内容の番組でした。
英国の公文書館などから最近見つかった膨大な資料を根拠にして、日本はソ連の対日参戦を早い時期から察知しながら、ソ連に接近し、講和の仲介を頼もうとしていたこと。また、強硬に戦争継続を訴えていた軍が、内心では米軍との本土決戦能力を不十分と認識し、戦争の早期終結の道を探ろうとしていたこと、が判明しました。1人でも多く無用な犠牲者を出さないように、戦いの幕引きの素地は充分に出そろっていながら、そのチャンスはみすみすつぶされてしまったのでした。
この番組では、戦後に収録されながら内容が公開されてこなかった戦争当事者らの肉声証言なども有効に交えて、厚みのある構成となっていました。
↑大人たちだって乗って遊んでいる。↑
■戦争末期の日本の指導者らの行動を検証し、重要な情報が誰から誰に伝えられ、誰には伝えられなかったのかを分析し、国家存亡の危機を前にしながらも、自己の権限の中に逃避し、決定責任を回避しあっていた指導者らの実態が生々しく浮き彫りにされたのでした。。
一連のこの歴史検証を見て、現在、我が国の抱えている状況、特に原発事故の対応を巡る情報非公開体質と、緊急対応の出来ない我が国指導者らの体質が、寝深いものであることに考えされられたのは、筆者だけではないと思いました。
↑冷戦時代のソ連版巡航ミサイルBasalt(射程距離550km、速度超音速)も展示。↑
■ゾルゲ事件といい、情報共有化の欠如といい、国の存亡より自己保身の重視といい、日本の情報管理能力は誠にお粗末でした。日露戦争ではあれほど情報の価値を肝に銘じていたはずなのに、この国の指導者たちは、わずか30年余りですっかり別人となっていました。
そして、国家的な岐路における重要な決定をめぐる課題について、昨年の3.11でも、この国の指導者らは、情報開示の原則を忘れ、国民に必要な情報を与えないまま、大勢の国民や国土を被曝させたままにしてしまったのです。
↑納沙布岬から沖合いに見える海上灯台とその向こうの歯舞諸島。↑
この責任は、当時の指導者や官僚が追うべきものですが、戦後67年を経過した現在となっては、関係者の多くは既に鬼籍に入ってしまい、貴重な証言はどんどん失われています。今回、英国の公文書館で貴重な情報が発見されなかったら、我々国民は、外務省のいうとおり、ソ連の騙しうちに怒りを覚え続けていたことでしょう。しかし、怒りをぶつける相手は、実際には我が国の指導者や官僚だったのです。
↑根室市内から国後島の雪を頂いた山々が見渡せる。↑
やはり、日本人として、理不尽だと思ったことはきちんと批判し、間違いを質していくという対応をしっかりと身につけたいと思います。
↑昨年まで墓参団や青少年活動等で使われていた北方四島交流船ロサルゴサ号。↑
【ひらく会・情報部】
※参考資料http://www.nntt.jac.go.jp/season/pdf/otto-1.pdf
【ゾルゲ事件とは】
1941 年10月、国際的な情報諜報団検挙事件として、リヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実らが逮捕されたのが、いわゆるゾルゲ事件である。
ソ連共産党中央委員会および赤軍第四本部に直属して諜報活動に従事していたゾルゲは、ナチス党員の肩書きとともにドイツの新聞記者を装って来日、東京の駐日ドイツ大使館などで情報を収集していた。当時、近衛文麿内閣のブレーンの一人であり満鉄の嘱託だった尾崎秀実からも情報を得たゾルゲは、対ソ戦での日本の方針や、ナチス=ドイツのソ連攻撃情報を収集・分析してソ連共産党最高指導部に報告していた。
ソビエト政府への情報漏洩は実に8 年にもおよぶ。ゾルゲ諜報団は、各国からのコミンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現をめざす日本人活動家たちによって組織されていた。その中でもゾルゲが最も厚い信頼を寄せていたのが尾崎秀実である。近衛内閣嘱託の立場を利用して、決死の覚悟で尾崎は国家機密をゾルゲに提供した。報告され
た主な内容は、日独防共協定、大本営設置事情、ノモンハン事件、日独伊軍事同盟をめぐる問題、さらには最高国家機密である御前会議の内容にまでおよぶ。
◆
1939 年、ドイツ軍のポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が勃発する。ゾルゲはモスクワからの緊急指令として独ソ戦に関する日本軍の動向を探る任を受ける。ゾルゲと尾崎は、さまざまな情報ルートを用いて日本の対ソ戦回避を画策した。1941年9月、御前会議で日本軍の南進政策が決定。その知らせを受けたソ連軍はスターリングラードの戦いに兵力を集中させドイツ軍に圧勝する。任務を完遂して安堵していたゾルゲと尾崎だったが、翌月の10月にこれらの活動が発覚し、ゾルゲのグループは「国際諜報団事件」として日本人の検挙者は35 名、うち18 名が治安維持法、国防保安法、軍機保護法などの違反容疑で起訴された。
ゾルゲ事件は日本政府ばかりか、内外に大きな衝撃的を与えたが、日本警察当局はその事実に驚愕し、発表を半年以上遅らせた。
検挙者は獄死したり、取り調べ中の拷問で死んだりしたが、3 年間の取調べと獄中生活の後、1944年11月7日、奇しくもロシア革命記念日に尾崎秀実とゾルゲは処刑された。
1964 年、ゾルゲはソ連から「最高ソ連英雄勲章」を贈られた。英雄の称号を得るまで、ゾルゲ没後20 年の時が必要とされた。1930年代当時、ソ連最高指導者スターリンはゾルゲを二重スパイではないかと疑い、ゾルゲが命がけで提供した情報も全面的に信用してはいなかったのである。
【ゾルゲの生い立ち】
ゾルゲは、1895年にロシア帝国の領土アゼルバイジャンの油田の町バクーで生まれた。ドイツ人の父とロシア人の母をもち、3歳で家族とともにドイツに移住。18歳の時、第一次世界大戦でドイツ志願兵として戦場に赴き、3度の負傷。3度目の負傷で除隊となるが、この時の後遺症で生涯片足が不自由になってしまった。
1919年、ドイツ共産党に入党。国際共産世界の実現を夢見てコミュニストになった。その後、ロシア共産党に移り、共産党の国際組織であるコミンテルンの一員となった。1929年にソ連赤軍第四本部に移り、1930年1月、ドイツの新聞記者の肩書きをもって上海へ。その目的は、中国国民政府と中国をめぐる資本主義列強の動向を調査するためだった。ここ上海でアメリカ人女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを介して尾崎秀実と出会うことになる。
↑戦後、アゼルバイジャンには、シベリアに抑留された日本人兵士と同様、たくさんのドイツ人兵士が抑留され、インフラ整備に駆り出されました。ただし、温暖な気候も手伝って、ドイツ人の犠牲者は皆無で、作業が終わればワインも飲め、帰国せずにそのままアゼルバイジャンに留まった者も少なくなかったそうです。当時、ドイツ人により建設された火力発電所は戦後半世紀以上を経過して老朽化したため、2003年ごろから我が国の円借款でコンバインド型ガスタービン発電設備が建設されるようになりました。ゾルゲ公園の夜間照明用の電気にも日本製の発電設備が生み出した電力が混じっています。↑
↑ソ連の対日参戦は不意打ちではなく、事前に、4か月前に日本は情報を得ていた。ならば、1945年6月22日の御前会議で戦争終結を決断していたら、原爆投下もシベリア抑留も北方領土問題も中国残留孤児問題もあり得なかった。現代史を揺るがす真実に納沙布公園にある「四島のかけはし」のモニュメントは今、何を思う。2007年12月26日撮影。↑
驚きました。1945年2月4日から11日にかけてクリミア半島のヤルタで行われた米国のルーズベルト、英国のチャーチル、ソ連のスターリンによる首脳会議で、ソ連がドイツ降伏の3カ月後に対日参戦するというという密約が交わされたことについて、同年の4月に英国に駐在していた日本の海軍武官が東京に伝えていたことを示す暗号解読文書が、英国の公文書資料館に存在するというのです。
確かにナチスドイツは1945年5月8日にフランスのランスで降伏文書に調印し、翌5月9日に首都ベルリンで批准手続きとなる降伏文書調印を行った事により降伏しました。したがって、ヤルタ会談の密約に基づいて、その90日後の8月10日にソ連は対日参戦したことになります。
しかも、ヤルタ会談でソ連参戦が決まったという情報は、欧州に駐在していた他の武官らからも1945年4月以降も、5月、6月と東京に重ねて伝えられていたというのです。
■番組では、このことについて、現代史の歴史研究家や外交専門家らが、日本の現代歴史観を変える重要な証拠書類の発見だとして、なぜ我が国は、ドイツ敗戦後も本土決戦と称して、国民を無駄死にさせたのか、なぜ我が国は戦争をもっと早い時期に止められなかったのかについて、当時の軍部や外務省などの生前の証言資料なども交えて検証しつつ、いろいろな観点から評価や分析が加えられ、討議されました。
既に本土が連日猛空襲に襲われ、沖縄に米軍が上陸し、ドイツが降伏したにも関わらず、重大情報は共有化されないまま、貴重な時間を浪費してしまったのか、戦争終結の機会がせっかく到来しながら、知り得た情報が生かされず、会議の中で、あるいは天皇の前で、なぜ本音をぶつけ合って意見が言えなかったのか。無能な指導者に加えて、外務官僚や、やはり官僚である参謀らの弱気な対応が、敗戦までの4ヶ月間に60万人以上の日本人の命を失わせ、戦後のシベリア抑留や北方領土問題など、現在に至るまで日本国民に与え続けている艱難辛苦は、そうした亡国の指導者や官僚らによって作り出されたことが浮き彫りにされました。
↑ウラジオストクの要塞博物館に展示してあるソ連の1945年8月9日の対日参戦直後からミズーリ艦上での同年9月2日の降伏文書調印までの3週間におけるソ連軍の作戦行動ルートを示した地図。2010年8月22日撮影。↑
■さらに、驚くべきことは、ソ連の対日参戦を知りながら、当時の官僚は、戦後も一貫して「対日参戦については知らなかった」とシラを切り、「ソ連の参戦は、ソ連が一方的に中立条約を破り、不意打ち的に攻め込んできた」として、自分たちの責任を終戦後もずっと棚上げしてきたことです。そして、北方領土問題に多くのエネルギーを割いているのです。
1945年2月に米英ソ三国の首脳により行われたヤルタ会談は、第2次大戦が終幕に入る中、ソ連の対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなった会談で、ヤルタ体制とも呼ばれています。
時期的には1945年1月にポーランドを占領したソ連軍(赤軍)がベルリン付近に達しつつあり、西部戦線においてはアメリカ・イギリス等の連合軍がライン川に迫っていました。
ヤルタ会談の直前の1945年1月30日~2月3日には、ヤルタ会談の事前打ち合わせとして米英二国の首脳がマルタ島で会談しています。こちらはマルタ会談と呼ばれるものです。
■ヤルタ会談の結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定が結ばれ、米英仏ソ四カ国によるドイツの分割統治、ポーランドの国境策定、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。
併せて米ソの間でヤルタ秘密協定が締結され、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇も決定し、現在も続く北方領土問題の端緒となりました。米国が北方四島問題について全く関心がないのは、この時、ソ連と密約していたためです。
また、戦後の発足が議論されていた国際連合の投票方式について、後の国際連合常任理事国となる米英仏中ソ五カ国の拒否権を認めたのもこの会談でした。
米国としては、ドイツ敗戦後も日本が徹底抗戦を続けることが予想されたため、太平洋戦争での自国の損失を抑えるべく、日本と日ソ中立条約を結んでいたソ連に対して、条約破棄と対日参戦を促すことに比重を置いた会談でした。
■しかし、日本はヤルタ会談の密約で決まったソ連の対日参戦を、ヤルタ会談の2カ月後には英国駐在武官からの暗号による報告文書で知り得ていたのに、ぐずぐずと降伏決定を先送りにしてしまいました。そして、1945年8月9日にソ連に宣戦布告を許すという最悪の結末に直面して、ようやく、その翌日の8月10日にポツダム宣言に示された無条件降伏の受諾を連合国側に通告したのでした。
結果的にソ連は、東京湾でのミズーリ艦上で行われた降伏文書調印をもって戦争が正式に手続的に終結するまでの僅か1カ月足らずという非常に短期間に、日露戦争で日本の占領地となっていた南樺太と千島列島を北方四島もおまけに付けて、効率よく奪還できたのでした。
■もちろんソ連は米国の要請によって対日参戦をしたわけではなく、ソ連自身も、対ドイツ戦で優位にたった時点で、日露戦争で奪われた南樺太と千島列島(北方四島以外の)の奪還を目的に、1944年の後半には、米国にその意思を伝えていたとされています。
ソ連がドイツ戦に優位な立場に立てたのは、日ソ中立条約のためではありません。疑り深いソ連が、たとえ中立条約(1941年4月13日署名、同25日発効)を日本と結んだとしても、満州の関東軍がいつまたノモンハンの時のように攻めてくるか疑心暗鬼だったからです。
実際に、当初、ソ連は日本の提案に応じませんでした。1940年9月27日に日独伊三国同盟が締結されていたからです。しかし、その後、ソ連は、ドイツの対ソ侵攻計画を予見したことから日本の提案を受諾し、1941年4月13日調印しました。
■そして、同年11月には、ソ連は極東に配備していた部隊を西部へ移送し、同年12月のモスクワ防衛戦に投入しました。ドイツ軍は、シベリアで厳冬での戦い方を知り尽くした極東部隊の支援を受けたソ連軍の反撃により、モスクワ前面で100マイル近く押し戻され、1941年中にソ連崩壊を狙ったヒトラーの作戦は、失敗に終わりました。
さらに1942年6月28日から- 1943年2月2日にドイツとソ連が戦ったスターリングラードの攻防戦でも、シベリアの兵力を援軍として投入できたソ連が圧勝し、欧州戦線の戦況を大きく転換さたのでした。
■極東で対峙していた日本の関東軍の動きについてソ連が抱いてきた疑心暗鬼を払しょくしたのは、日本にいたソ連のスパイが1930年代から1941年9月まで8年間に亘り、もたらした情報によるものでした。
とくに、1941年9月、御前会議で日本軍の南進政策が決定されたことを知ったソ連が、上述の通り、シベリア兵力を西部戦線に安心して投入できたことが、欧州での戦局を大きく転換したのでした
このスパイ事件は、リヒャルト・ゾルゲを頭とするソ連のスパイ組織が日本国内で1930年代から諜報と謀略活動を行ない、1941年9月から1942年4月にかけて、そのゾルゲをはじめメンバーが逮捕されたもので、中には、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実らもいました。
↑ゾルゲの出身地のアゼルバイジャン首都バクー市内にあるゾルゲ公園の記念モニュメント。ゾルゲの顔の特徴をデザインし、さしずめ「壁に耳あり、障子に目あり」という戒めを表している。2004年1月19日撮影。↑
■ゾルゲ事件の詳細やゾルゲの生立ちは、この記事の最後に参考として記載してありますが、昨晩のNHKスペシャルで報じた、ヤルタ会談のソ連参戦の密約について、ソ連の台頭を懸念した米英が、それとなく情報をリークし、日本に早期戦争終結を促したという背景があることも含め、1945年4月に日本の駐英武官が東京にヤルタ会談でのソ連参戦の密約内容を東京に伝えていた事実が有ったことが分かったことは、大変な驚きです。
しかもヤルタ会談での密約に基づき、1945年4月5日にソ連は、翌年期限切れとなる日ソ中立条約をソ連は延長しないことを、駐ソ連の日本大使を通じて日本に通達していました。この時の通達では、1946年4月5日まで条約の残存期間は残ることになっていましたが、在外の駐英武官の東京へのソ連対日参戦情報は、これとほぼ同時期に伝えられていたことになります。
↑ウラジオストク市内アムール湾を望む丘の上にある要塞博物館は、日露戦争前に作られた要塞をそのまま博物館として利用。お昼には時刻を知らせる「正午の空砲」を鳴り響かせるのがこの移動式カノン砲。↑
■ヤルタ会談の密約で対日宣戦布告が約束されていたソ連は、日本がまだ降伏しないことを幸いに、1945年7月17日から8月2日までベルリン郊外のポツダムに米英ソ三国首脳が集まり行われたポツダム会談で、日ソ中立条約の残存期間中であることを理由に、米国とその他連合国がソ連政府に対日参戦の要請文書を出すことを求めたのでした。
こうして、1945年7月26日にポツダムで日本に向けて発せられた無条件降伏に関する宣言に至っても、日本はまだ無用な戦争をやめることができず、8月6日のヒロシマ、同9日のナガサキへの原爆投下、同じく8月9日のソ連対日宣戦布告を経て、8月10日になり、ようやくポツダム宣言を受諾する旨連合国側に通知したのでした。
↑日本軍から押収した武器も展示してある。
■このように、現代史観に大きな影響を与える新たな事実が判明しました。すなわち、ソ連が終戦末期に参戦することについて日本は事前に知り得ていたという事、日本政府は「降伏」という言葉を使わずに結果的に「終戦」という形で、外圧に翻弄されるまま、最後まで自主的に戦争終結を決断できなかったことが明らかになったのでした。
筆者はシベリアを訪問した際に、たくさんのロシア人から質問を受けました。「なぜ、日本は第2次大戦でドイツと組んだのか?」と。第2次大戦におけるロシア人の戦死者・犠牲者は、日本人が約310万人と言われているのに比べると、一桁大きい数字となっています。その大半は、ドイツとの戦争で失われました。ロシア人にしてみれば、なぜ日本はロシアを挟んでドイツと手を結んだのか、という思いがよほど強いのでしょう。
一方、日本としては、広大な太平洋での米軍との洋上戦闘や、広大な中国での地上戦で手一杯で、とてもソ連と対峙していられない事情があり、5年間の有効期間としてソ連と結んだ中立条約を、突然ソ連の裏切りで破棄されて宣戦布告されたのは理不尽で有り、ソ連の不意打ちを突いたやり方は国際ルール違反だと戦後、教えられてきまました。しかし、どうやらこの国の指導者や官僚の失政を隠すためにそのように教え込まれてきたのが真実のようです。
今回の番組で視聴者が認識したことは、1945年4月以降、同6月までに駐英武官をはじめ複数の欧州駐在武官からソ連の対日参戦情報が東京に伝えられ、1945年6月22日の天皇主催の会議でも、そうした連合国側の情報が上奏されないまま、この国の民が、悲劇の結末に突き進まされていたという真相でした。
↑対空機銃に乗って遊ぶ現地の子どもたち。↑
■以上のように、昨日の終戦記念日に放送されたNHKスペシャルでは、1945年の4月、駐英武官から暗号文書でソ連対日参戦の情報が東京に伝えられた時、戦争の帰趨はとっくに決まっていたのに、なぜもっと早く戦争を終えることができなかったのか?ということを掘り下げた、質の高い内容の番組でした。
英国の公文書館などから最近見つかった膨大な資料を根拠にして、日本はソ連の対日参戦を早い時期から察知しながら、ソ連に接近し、講和の仲介を頼もうとしていたこと。また、強硬に戦争継続を訴えていた軍が、内心では米軍との本土決戦能力を不十分と認識し、戦争の早期終結の道を探ろうとしていたこと、が判明しました。1人でも多く無用な犠牲者を出さないように、戦いの幕引きの素地は充分に出そろっていながら、そのチャンスはみすみすつぶされてしまったのでした。
この番組では、戦後に収録されながら内容が公開されてこなかった戦争当事者らの肉声証言なども有効に交えて、厚みのある構成となっていました。
↑大人たちだって乗って遊んでいる。↑
■戦争末期の日本の指導者らの行動を検証し、重要な情報が誰から誰に伝えられ、誰には伝えられなかったのかを分析し、国家存亡の危機を前にしながらも、自己の権限の中に逃避し、決定責任を回避しあっていた指導者らの実態が生々しく浮き彫りにされたのでした。。
一連のこの歴史検証を見て、現在、我が国の抱えている状況、特に原発事故の対応を巡る情報非公開体質と、緊急対応の出来ない我が国指導者らの体質が、寝深いものであることに考えされられたのは、筆者だけではないと思いました。
↑冷戦時代のソ連版巡航ミサイルBasalt(射程距離550km、速度超音速)も展示。↑
■ゾルゲ事件といい、情報共有化の欠如といい、国の存亡より自己保身の重視といい、日本の情報管理能力は誠にお粗末でした。日露戦争ではあれほど情報の価値を肝に銘じていたはずなのに、この国の指導者たちは、わずか30年余りですっかり別人となっていました。
そして、国家的な岐路における重要な決定をめぐる課題について、昨年の3.11でも、この国の指導者らは、情報開示の原則を忘れ、国民に必要な情報を与えないまま、大勢の国民や国土を被曝させたままにしてしまったのです。
↑納沙布岬から沖合いに見える海上灯台とその向こうの歯舞諸島。↑
この責任は、当時の指導者や官僚が追うべきものですが、戦後67年を経過した現在となっては、関係者の多くは既に鬼籍に入ってしまい、貴重な証言はどんどん失われています。今回、英国の公文書館で貴重な情報が発見されなかったら、我々国民は、外務省のいうとおり、ソ連の騙しうちに怒りを覚え続けていたことでしょう。しかし、怒りをぶつける相手は、実際には我が国の指導者や官僚だったのです。
↑根室市内から国後島の雪を頂いた山々が見渡せる。↑
やはり、日本人として、理不尽だと思ったことはきちんと批判し、間違いを質していくという対応をしっかりと身につけたいと思います。
↑昨年まで墓参団や青少年活動等で使われていた北方四島交流船ロサルゴサ号。↑
【ひらく会・情報部】
※参考資料http://www.nntt.jac.go.jp/season/pdf/otto-1.pdf
【ゾルゲ事件とは】
1941 年10月、国際的な情報諜報団検挙事件として、リヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実らが逮捕されたのが、いわゆるゾルゲ事件である。
ソ連共産党中央委員会および赤軍第四本部に直属して諜報活動に従事していたゾルゲは、ナチス党員の肩書きとともにドイツの新聞記者を装って来日、東京の駐日ドイツ大使館などで情報を収集していた。当時、近衛文麿内閣のブレーンの一人であり満鉄の嘱託だった尾崎秀実からも情報を得たゾルゲは、対ソ戦での日本の方針や、ナチス=ドイツのソ連攻撃情報を収集・分析してソ連共産党最高指導部に報告していた。
ソビエト政府への情報漏洩は実に8 年にもおよぶ。ゾルゲ諜報団は、各国からのコミンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現をめざす日本人活動家たちによって組織されていた。その中でもゾルゲが最も厚い信頼を寄せていたのが尾崎秀実である。近衛内閣嘱託の立場を利用して、決死の覚悟で尾崎は国家機密をゾルゲに提供した。報告され
た主な内容は、日独防共協定、大本営設置事情、ノモンハン事件、日独伊軍事同盟をめぐる問題、さらには最高国家機密である御前会議の内容にまでおよぶ。
◆
1939 年、ドイツ軍のポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が勃発する。ゾルゲはモスクワからの緊急指令として独ソ戦に関する日本軍の動向を探る任を受ける。ゾルゲと尾崎は、さまざまな情報ルートを用いて日本の対ソ戦回避を画策した。1941年9月、御前会議で日本軍の南進政策が決定。その知らせを受けたソ連軍はスターリングラードの戦いに兵力を集中させドイツ軍に圧勝する。任務を完遂して安堵していたゾルゲと尾崎だったが、翌月の10月にこれらの活動が発覚し、ゾルゲのグループは「国際諜報団事件」として日本人の検挙者は35 名、うち18 名が治安維持法、国防保安法、軍機保護法などの違反容疑で起訴された。
ゾルゲ事件は日本政府ばかりか、内外に大きな衝撃的を与えたが、日本警察当局はその事実に驚愕し、発表を半年以上遅らせた。
検挙者は獄死したり、取り調べ中の拷問で死んだりしたが、3 年間の取調べと獄中生活の後、1944年11月7日、奇しくもロシア革命記念日に尾崎秀実とゾルゲは処刑された。
1964 年、ゾルゲはソ連から「最高ソ連英雄勲章」を贈られた。英雄の称号を得るまで、ゾルゲ没後20 年の時が必要とされた。1930年代当時、ソ連最高指導者スターリンはゾルゲを二重スパイではないかと疑い、ゾルゲが命がけで提供した情報も全面的に信用してはいなかったのである。
【ゾルゲの生い立ち】
ゾルゲは、1895年にロシア帝国の領土アゼルバイジャンの油田の町バクーで生まれた。ドイツ人の父とロシア人の母をもち、3歳で家族とともにドイツに移住。18歳の時、第一次世界大戦でドイツ志願兵として戦場に赴き、3度の負傷。3度目の負傷で除隊となるが、この時の後遺症で生涯片足が不自由になってしまった。
1919年、ドイツ共産党に入党。国際共産世界の実現を夢見てコミュニストになった。その後、ロシア共産党に移り、共産党の国際組織であるコミンテルンの一員となった。1929年にソ連赤軍第四本部に移り、1930年1月、ドイツの新聞記者の肩書きをもって上海へ。その目的は、中国国民政府と中国をめぐる資本主義列強の動向を調査するためだった。ここ上海でアメリカ人女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを介して尾崎秀実と出会うことになる。
↑戦後、アゼルバイジャンには、シベリアに抑留された日本人兵士と同様、たくさんのドイツ人兵士が抑留され、インフラ整備に駆り出されました。ただし、温暖な気候も手伝って、ドイツ人の犠牲者は皆無で、作業が終わればワインも飲め、帰国せずにそのままアゼルバイジャンに留まった者も少なくなかったそうです。当時、ドイツ人により建設された火力発電所は戦後半世紀以上を経過して老朽化したため、2003年ごろから我が国の円借款でコンバインド型ガスタービン発電設備が建設されるようになりました。ゾルゲ公園の夜間照明用の電気にも日本製の発電設備が生み出した電力が混じっています。↑