森繁久弥氏死去:戦後の哀歓、多彩に ラジオも歌も芝居も
「屋根の上のヴァイオリン弾き」上演900回目の千秋楽で観客のカーテンコールに応える森繁久弥さん(中央)と出演者=東京・丸の内の帝国劇場で1986年5月撮影 森繁久弥さんは多才な人だった。その才能で、戦後の芸能界の各ジャンルで活躍した。幅の広さにおいて、森繁さんに匹敵する人はいない。
ラジオ全盛時代には「愉快な仲間」「ラジオ喫茶室」、さらに「日曜名作座」でラジオ話芸というジャンルをひらいた。映画時代には「三等重役」をはじめとする“社長シリーズ”で、サラリーマンという戦後急成長した新しい職業の哀歓を喜劇的に描き出した。
一方「夫婦善哉」「神阪四郎の犯罪」などで、英雄でも二枚目でもない新しい主役像を造形した。テレビでは「七人の孫」「だいこんの花」に代表されるホームドラマの主人公を演じ、年をとってからは、吉田茂や高橋是清といった硬骨漢を好んで演じた。
舞台では「佐渡島他吉の生涯」「桂春団治」などで庶民的人物を演じ、ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」もある。歌では「船頭小唄」「知床旅情」。文章では多数の著作があり、作家顔負けの軽妙なエッセーには定評がある。
そのどれもが森繁さんの本業であり、ぴたっと身についていた。森繁さんには、俳優とかスターとかいう一言で言える肩書がなかったのである。
ファン層も幅広かった。だが、ファン一人一人が抱く森繁さんのイメージは、すべて違っていたはずだ。軽妙な喜劇俳優というイメージから、気むずかしそうなおじいさんまで、雑多だったろう。森繁さんがあまりに多才で、多くの顔を持ちすぎていたからである。
森繁さんはあらゆる芸能ジャンルで活躍し、それぞれに足跡を残した。だが、どの分野でもパイオニア(開拓者)だったことはない。ラジオ、映画など各ジャンルが盛んになったところですっと身を入れ、森繁さんならではの仕事をするのが常だった。
それは、森繁さんの才能によるものであり、また森繁さんの独特のカンによる選択だったと思う。変幻自在だったのだ。
これは芸風にも表れている。森繁さんの芸は軽妙にみえた。しかし、重厚な面もあった。いいかげんにみえて実は恐ろしくまじめで、温かそうにみえて冷たかった。
森繁さんは本当はさめていた人だと思う。青年期、中国(旧満州)で死生の境をさまよい、人の世の地獄を見た体験によるものかもしれない。これは自著に書いていることだが、やっと売れ始めて初主演映画の出演料が手に入った時、その金で自分の墓を作った。
森繁さんは観客の思いをたくみにかわして、笑いを作った。そのかわし技の見事さが森繁さんの芸だったが、これもさめていないとできることではない。森繁さんは、このコツを戦後間もなくパチンコから得た、と書いている。
「リズミカルな動きと感情の推移とを、サラリとしつこくなく点描していくこと(中略)すでに結果の見える演技ほどつまらないものはない」
森繁さんは情緒的なべとべとした演技を嫌い、人間関係もクールだった。一方、森繁劇団時代には、薄給の俳優たちのために私費で楽屋に森繁飯店を開いて、食事を振る舞った。根はやさしい人だった。そのやさしさを慕い、多くのスターが集まり、森繁さんは舞台、テレビで彼らを引き立てた。しかし、私などには「このうち、何人が物になるか。最後は自分の力ですからね」と言っていた。
その人柄も一口では言い表せない人だったのである。(客員編集委員・水落潔)
そうだよね
さめていたよね
でもあったかったよね
そして エッチだったよね
<森繁久弥氏死去>家族に見守られ 安らかな表情で
11月11日0時28分配信 毎日新聞
軽演劇に始まり、ラジオ時代にはラジオ、映画時代には映画でと、多彩な活躍をしてきた森繁久弥さんが10日、亡くなった。96歳だった。時代の風俗を軽妙な演技で映してきた俳優の死を、多くの関係者が悼んだ。
森繁さんの所属事務所「アクターズセブン」の守田洋三社長(68)によると、森繁さんは10日午前8時16分に次男・建(たつる)さん(66)ら家族に見守られながら、亡くなった。家族からの知らせを受けた守田社長は9時過ぎ、病院に駆けつけたが、森繁さんは安らかな表情でベッドに横たわっていたという。
森繁さんは風邪による発熱で大事を取り、7月22日から東京都内の病院に入院していた。目が悪いため、病室では読書はしていなかったが、テレビを見たり、家族らと話をしたりして過ごしていた。守田社長らが見舞いに訪れた際には「何かおもしろい話はないか」というのが口癖で、好奇心旺盛な様子を見せていた。芸能界関係者の見舞いは「周囲に気を使わせたくない」との本人の意向で、遠慮していたという。
守田社長によると、森繁さんはこれまで250本以上の映画に出演し、04年の映画「死に花」への出演が最後の仕事になった。事務所は、99歳の白寿のお祝いを計画していたといい、これまでに出演した映画やドラマなどの功績をまとめることを検討していた。守田社長は「もう高齢なのでいつかこの日が来ると覚悟はしていたが、ショックだ。森繁さんとは40年来のつきあいで、一緒に多くの仕事をさせてもらった。今年の春、森繁さんが『もうすぐ、100歳だからなあ』と元気な様子で話し、みんなで大笑いしていたのが思い出される」と話した。【佐々木洋】
◇「1人で芸能史体現」
映画評論家の白井佳夫さんは「舞台、映画、テレビ、ラジオという幅広い媒体で、シリアスな芝居からコメディー、人情もの、歌、ミュージカルまでこなした。役柄も主役から性格俳優的な脇役まで何でもできる。あらゆる面で境界を超えた人だった。戦後の芸能史は森繁一人の道程を書けば事足りてしまうほど」とフィールドの多彩さを指摘する。「友人のコメディアンをリアルな芝居に出演させて才能を開花させるなど、異分野の人を抜てきするプロデューサー的能力もあった。映画に出演すれば自分で歌を作ってしまう」と、演じるだけではない才能も紹介。「マルチな活躍は北野武、タモリにつながる現代のマルチタレントの先駆けといえる。行い澄ましたところのない『名優』だった。こんな俳優は他にいなかった」と惜しんだ。
◇最後まで立派に 淡島千景さん
「夫婦善哉」など数多くの映画・舞台で共演した女優の淡島千景さんは「世の中の見方やおしゃべりのうまさなど、立派な役者さんだった。最後に共演した時は、森繁さんは体が動かず不調だったが、『本番』の声がかかると、きちんと演じていらした。親切で神経の細かい方で、舞台を楽しんでいらした。昨年、ご自宅を訪ねた時は玄関まで出迎えていただき、お元気そうだったのに。もうちょっと長生きしてもらいたかった」と悼んだ。
◇洒脱でピュアで 西田敏行さん
俳優の西田敏行さんは「私のデビュー当時、本当に可愛がっていただきました。森繁先生の芝居から学んだことは数知れず、洒脱(しゃだつ)で大人のにおいをプンプンさせたかと思えば、『屋根の上のヴァイオリン弾き』ではテヴィエのピュアな感情を見せてくださいました。ありがとうございました」とコメントした。
◇空気変わった 犬童一心さん
森繁さんの最後の映画出演作となった「死に花」を監督した犬童一心さんは「日本の俳優の頂点で、森繁さんが来るというだけで現場の空気が変わった。助監督にかわいい意地悪をしたり、女優さんが来るとうれしがったり、撮影が楽しくてしょうがない様子だった」と話した。
◇ロマン感じた 加藤登紀子さん
ヒット曲「知床旅情」を森繁さんに作詞・作曲してもらった加藤登紀子さんは「100歳まで生きてほしかった! 本当に残念です。老いてますますかわいくてすてきなおじいちゃんでした。『うたうように語り、語るようにうたえ』。それが森繁さんの心でした。弾き語りで歌った『ひとり寝の子守唄』を聞いてくださったとき、『僕と同じ心で歌っているね』と言ってくださったのが初めての出会いでした。その後、『知床旅情』を歌わせていただきました。何度も一緒に声を合わせて歌い、感じたのは大陸の大きさと、日本人の優しさ、男のロマンそして色気でした」などとするコメントを発表した。 最終更新:11月11日0時28分