【寄稿】「安倍元首相国葬」 どうしても消えぬ違和感 川口幹子
この日本で、遊説中に政治家が銃弾に倒れるという衝撃から2週間。衝撃が冷めやらぬ中、安倍晋三元首相の国葬が閣議決定された。
失われた命に対して、哀悼の意を表し、存命中の故人の生き方に対して敬意を払うのは当然のことだ。しかし、国葬という判断には、どうしても違和感がぬぐえない。
この違和感の種は、事件発生直後から芽生えていた。報道では、事件直後から「民主主義への挑戦」などの言葉が飛び交った。渦中で行われた参院選も、暴力による民主主義の破壊を許さない、民主主義を守り抜く、そのための選挙だ-という言い回しが目立った。選挙の結果にも「弔い合戦」のような追い風が少なからず影響したのではないかと、一個人としては感じている。今回の国葬の判断も「民主主義を断固として守り抜く姿勢を示すためだ」と説明されている。
そうなのか? あの事件は政治テロなのか?
私には、社会に居場所を見つけられなかった容疑者が、自らの存在の主張のためにたまたま大物政治家を狙った、ある種の無差別殺人だったように見える。それをあたかも「民主主義を貫いたがために、ファシズム的思想との対立の上に倒れた」と錯覚させるかのような論法には違和感しかない。
そもそも、安倍政権は、本当に民主主義だったのか? 安倍一強のもと、ほとんど何も説明しなかった政権が、民主主義を貫いたと言えるのだろうか。
国葬という判断によって、安倍元首相を民主主義の英雄として神格化し、その政治姿勢全体を功績として称える-その評価が定着してしまうことに、強い危機感を覚える。
選挙中に銃弾に倒れるというシチュエーションによって、誰も「悪く言えない」状態になってしまった。国葬への疑問を呈することも、死者への冒涜(ぼうとく)と受け取られかねない。あの長期政権の背景や業績をしっかりと検証することすら、墓を暴く行為であるかのように錯覚させる。誰も何も言えない。
今回の「国葬」の判断には安倍政権の功罪を検証する機会に蓋をする意図があるように思えてならない。それこそが民主主義の崩壊である。
8月が近い。広島、長崎の77回目の「原爆の日」が巡ってくる。核兵器禁止条約への参加については無視という態度をとり続け、改憲を望み続けた政権。その功罪の検証と死者への弔意とを混同してはいけない。
私たちは、今こそ勇気をもって、真の民主主義を守り抜かなければならない。
一般社団法人・MIT専務理事 川口幹子氏(かわぐち・もとこ) 青森市生まれ。北海道大大学院環境科学院で学位取得後、東北大研究員、長崎県対馬市委嘱の対馬市島おこし協働隊を経て隊員と2013年3月にMIT設立。対馬市上県町志多留地区に移住し、高齢者も参画できる共同栽培、田んぼの再生などに取り組む。36歳
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