単気筒ライダー(だった男)のひとりごと

愛犬チビ と CB400SSライダーだった前期高齢者の日々

同じ釜の飯を食った先輩後輩(2/2)賢治先輩と二度会った朝

2024-05-25 | 盛岡・岩手・ラグビー仲間

 

三週間前のここ開運橋から見た岩手山の印象が今朝も尾を引きます。

やっぱり、窮屈そう。

 


 

いつも朝の珈琲を目当てにコンビニへ向かうところ、今朝は進路を変えてみた。

旭橋の袂から北上川沿い伸びる材木町通りを川を遡るようにぶらぶら歩く。

もう珈琲はいいや。

 


 

材木町通りのコミュニティ道路事業は、ボクの住む町でも話題になりました。

車が走りにくいように線形に変化をもたせる発想が珍しかったんでしょうね。

商店街活性化のため、ボクの町からも関係者が視察に訪れたことがあるはずです。

 


 

通りには「いーはとーぶアベニュー」という名前が付けられているようです。

宮沢賢治さんも一服していますし、愛用していたチェロも置かれています。

「注文の多い料理店」の出版に関わった光原社の喫茶店もあり、とにかくここは賢治さん通り。

 


 

材木町通りを北に抜けるとそこは夕顔瀬橋の袂。

盛岡最後の一年間、大学の行き帰りに毎日(かな?)渡った夕顔瀬橋。

今思うと、ボクの一番身近にあった橋。

 


 

裾野を左右にゆっくり伸ばした岩手山はここまで遡らないと拝めません。

夕川瀬橋から見る岩手山は、ボクがこの橋を渡った頃の姿と変わっていませんね。

 


 

去年、夕川瀬橋に立った時、興味をひかれた川沿いに伸びるこの小道を歩いてみよう。

一度も歩いたことのない道に、何とも言えない風情を感じてしまうもんだから。

 


 

当時なら岩大生が暮らす下宿屋があったような昭和を思い出す雰囲気があります。

今の学生さんには信じられないくらい、ボク等の住環境は質素でしたから。

 


 

えっ! あの「鹿島」か? と二度見しましたが、国内最大手のあの鹿島建設でした。

何故あの鹿島がここに400坪ほどの空き地を・・・? それを説明する看板がありました。

明治二十年代、一関~盛岡間の鉄道敷設工事を請負った当時の鹿島組の宿舎跡地のようです。

ひとつの疑問は解けたけど、その後100年以上持ち続ける理由って何??。

 


 

初めての道を歩けば、何かしら興味深い新しい事実を知るもんですね。

多分、西下台の岩大構内に出るはずなんですが、なかなか近くまで行けませんなあ。

 


 

結局、腰の治療に毎日のように通った高松病院のある舘坂橋の通りまで来てしまった。

この通りの緩い坂を上がった途中で、覚えのある「岩手大学自然観察園」の看板と再会。

当時、看板の前を通るたびに躊躇していましたが、今日は入るしかないでしょう。

 


 

ずいぶん垢抜けたアプローチだなあ・・・我が農学部の植物園とは違う?

教育学部に帰属する園内を通り抜けることに、当時は躊躇がありましたね。

関係ないよそ者が他者の領域に入り込むような、そういう遠慮があったんでしょうね。

 


 

鬱蒼と生い茂る緑の遠くにポツンと置かれた礎石の様なもの・・・何だあ?

 


 

ああ・・・観たことあるなあ、この写真。

寝そべった人の後ろ、左から三人目が今日二度目の宮沢賢治さん。

  「盛岡高等農林学校に来ましたならば まず標本室と農地実習とを

  観せてから植物園で苺でも御馳走しようではありませんか。  宮澤賢治」

大正五年 五月  当自然植物園(当時の植物園)で撮影 とあります・・・108年前の五月です。 

 


 

鬱蒼と生い茂った草木のエリアはとても心落ち着きましたが、散策路は短かったなあ。

自然観察園を抜けると「岩手大学芸術棟」と銘打つ建物があらわれた。

ボク等の時代にあった「特美=特設美術課」の学び舎なんでしょうか。

 


 

当時の特美にボクの高校の一学年先輩の女子学生がいました。

特美の学生はそれと分かる独特の雰囲気を持った人が多く、彼女もそうだったかなあ。

今も彼女は雫石にアトリエを構え活躍されているという話を聞きます。

 


 

おそらく、教育学部内をこんなにのんびり歩いたことなんて、なかったと思う。

工学部もそうでしたが他の学部にいく用事なんてまずなかったし、なんか入りづらいんだよね。

これもみな、岩手大学のキャンパスがあまりに広大だからだよ、当時は未整備だったしね。

 


 

早朝のラグビー場に多くの学生が・・・そう、ラグビー部員なわけがない。

後輩には失礼な言い方だったかな、でも、去年の内容じゃあ、そのぐらい頑張ってもいいぜ。

ラクロスとかいう競技の学生でしたが、男女合わせた部員数は随分多かったなあ。

 


 

カマさん、「がんとこ」はここ、学食の隣にあったんだよ。

カマさんは「がんとこ」の意味どころか、床屋があったことすら知らなかった。

ボクは一年の時、ここで坊主頭にして以来ずーっと「がんとこ」、安さが一番だったよ。

 


 

早朝、まだ7時前の爽やかさ空気がとても気持ちがいいです。

多分、日課にされているんでしょうね、朝の散歩を楽しんでいる市民の方が多くいます。

ボクが学生の頃は、整地されていない区画が至る所にあったし・・・隔世の感があります。

 


 

やっぱり農学部内に入ると、他のエリアには感じないちょっと重い感情が生まれてきます。

たぶん、もっと・・・という、後悔の念があるからなんでしょうね。

こんなに素晴らしい環境があったのにね・・・生かすも殺すもオメエー次第だったんだよ!

 


 

入学するときは、きちんと「表」から入って来たんだけどね。

学業もそしてラグビーも、何一つ及第点を取らずして、こっそり抜け出てきた思いがします。

五十年を過ぎようとしても、何も言わず迎え入れてもらえることは、とてもありがたいよ。

落第分を取り戻すつもりで一回でも多く訪れたいって、この頃そう思うようになったんだ。



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