表記の言葉が以前の新聞の読者欄に、21歳の大学生の意見として掲載されていた。
少し私の心に感じるところがあり、ここに文章を書いてみた。
さて、私が21歳の大学生だった時は、ドンナ気持ちを持っていただったのだろうかと、振り返ってみても、良くは思い出せない。
しかし、会社に入るまでの、若い頃の自分の考えについては若干覚えていることがある。
即ち、単純に、世の中の嘘と不正義が許るせなかった。
すべての事を、素直に、ダイレクトに受け止め考えていたように思う。
翻って、今の私は、長い社会生活を終えて、いろんな経験をしたので、嘘も、不正義も、世の中に起こる大抵の事が、現実の事と受け止められる。
表記の言葉を書いた大学生は、
リタイアした老人が、時間つぶしに落ちても構わないという安易な考えで受験するために、図書館の自習スペースを占拠し、挙句の果てに居眠りをして、若者の勉強スペースを占領している。
ここで、若い人が資格試験を必死になってチャレンジしているにもかかわらず‥‥である。
また、たまに若者が訪れるみんなが使う公園のベンチを老人が占領しているを見る。
これらの事を見聞きすると、若者は前記の老人の行為に対して、「余生は無遠慮の免罪符ではない」という言葉が出てきたらしい。
彼の考えはもっともである。
しかし、私が想像するに、老人になると、人間として、生きていく能力が若者の想像以上に低下していること、すなわち、思考能力が低下して、若い人が感じている、迷惑に気が付いてない、また、耳が聞こえにくくなって、周りの迷惑がっている声を感知できてないこともあるのである。
即ち、老人の意図と関係なく、若者にとっての腹立たしい行為が、老人によって行われてしまう。
此れから、社会に出る前の若者は、経験はないが、思考能力は出来てきている。
すべてを終えた老人は経験はあるが、感覚・思考能力が衰えてきている。
今日の表題の若者が感じた「余生は無遠慮の免罪符ではない」の言葉が出てくる状況は、
ちょうど、二通りの世代が、人間として、人生行路の中で、行きと帰りで、すれ違っている場所にあって感じる感情なのではとこの文章を読んで感じた。
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