「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県伊良部島  「 バイバイ!伊良部島 」

2013-02-03 00:31:03 | 離島めぐり



バイバイ!伊良部島














伊良部島からの帰りに乗った 「 ゆうむつ 」







伊良部島の玄関口 「 佐良浜港 」







ハトの形をした牧山の展望台







真正面に見えるのが 「 牧山展望台 」











伊良部島で目的の御嶽だけをめぐって宮古島に向った。
目的以外の場所に行けなかったのが心残りだが、
いつの日か、また訪れた時の楽しみとして取っておきたいと思っている。



沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 張水石畳道 」

2013-02-03 00:29:04 | 離島めぐり



坂の下から見た 「 張水石畳道 」








坂の上から見た 「 張水石畳道 」





















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


張水石畳道は18世紀のはじめ、土木工事が精力的に進められていた頃、
各村(字)の道幅は2間半に拡幅、改修、あるいは新設されたと伝えられている。
1696年の大地震のあと、土木工事の一環として石畳道も2間半に拡張され、
治山事業のなかで豊富に得られたであろう石を切り敷き詰めたものと推定される。

石畳は旧藩時代の政庁である「蔵元」の南側に沿って張水御嶽前から祥雲寺北東の辻まで続いていた。
廃藩置県後もほぼ完全に残っていたが、平良港築港(大正10年)、
宮古神社移転(昭和17年)にともなう工事ならびに沖縄戦などについで、
戦後の道路の拡張工事などで損傷し、現在は当時の3分の1を遺すのみとなっている。


宮古島市平良 西里



節分と恵方巻

2013-02-03 00:27:28 | 日記 ・ イベント













今日、2月3日は「節分(せつぶん)」である。
節分とは本来、「季節を分ける」つまり季節が移り変わる節日を指し、
立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日に、1年に4回あったものだったが、
日本では立春は1年のはじまりとして、とくに尊ばれたため、
次第に節分といえば春の節分のみを指すようになっていったようである。

立春を1年のはじまりである新年と考えれば、節分は大晦日(おおみそか)にあたり、
平安時代の宮中では、大晦日に陰陽師らによって
旧年の厄や災難を祓い清める「追儺(ついな)」の行事が行われていた。
室町時代以降は豆をまいて悪鬼を追い出す行事へと発展し、民間にも定着して行った。


恵方巻、恵方巻き(えほうまき)は、節分に食べると縁起が良いともされる、
太巻き・またその太巻きを食べる大阪を中心として行われている「太巻き丸かぶり(丸かぶり寿司)」の事。
別称として「恵方寿司」「招福巻」「幸運巻」「開運巻き寿司」などと表現されることもある。

発祥については、大阪船場の旦那衆が節分の日に行っていた、遊女に巻きずしを
「丸かぶり」させるお大尽遊び(花魁遊び)を元とする説、
江戸時代の終わり頃、大阪の商人たちの商売繁盛と厄払いの意味合いで、
立春の前日の節分に「幸運巻寿司」の習慣が始まったとされたと言う説などがあるが、
元々の「丸かぶり」という言葉から商売繁盛家内安全を願うものではなかったとも言われる。

イズレニシテモ、日頃そんなに食べることのない巻き寿司を
1年に一度くらい豪快にラッパ喰いするのもいいかもしれない。