「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

2月12日の朝

2013-02-12 06:54:19 | 朝の風景とその他の風景






夕べ12時半に寝たが、今朝はいつものように5時前に起きてムサシの散歩に出た。
今日は午後から雨だというが、空には満天の星が煌めいていて、
風がなかったのでそんなに寒くは感じなかった。

昨日は祝日だったが、現場に出て仕事をした。
日中は動くと汗ばむくらい快適な気温だった。
今日は午後から雨だというので、
午前中のうちにマンホールにリヴ管をつないで埋め戻しして、
マンホールの鉄蓋を設置するまでは出来るだろうな。





熊本県天草市  ・  天草炭坑 「 魚貫坑 ・ 烏帽子坑 」

2013-02-12 00:09:28 | 近代化産業遺産・土木遺産



天草炭鉱 「 烏帽子坑の坑口 」







レンガに包まれた坑口を守るように切り石製の防波堤が築かれている








わずかな烏帽子瀬に坑口が造られている







魚貫坑跡には今も炭坑施設が残っている


























ここから石炭の積み出しが行なわれていたと思われる岩壁











所在地  / 熊本県天草市魚貫町、牛深町下須島西岸
竣工   / 明治30年 ( 1897年 )
魚貫坑  / 最終期は魚貫炭坑株式会社が操業
烏帽子坑 / 市指定史跡・Bランク近代土木遺産
       天草炭業株式会社、のちに日本練炭株式会社に贈与


海底の炭坑にアプローチする波打ち際の坑口が独特な烏帽子坑。
そのレンガが波に洗われて剥がれ落ちた跡が時の流れを感じさせる。
海中からスクッと頭をもたげたような坑口。
良質な無煙炭を産出し、海軍の艦船に燃料を供給した天草の炭坑群。
九州の西岸に続く石炭の層は、のどかな漁村に産業の風を吹かせ、そして消えて行った。
波と風にさらされながら立つ坑口が藍色の海に浮かんで見える。

天草下島の西海岸に点在する炭坑群は北部、中部、南部に大別される。
魚貫坑と烏帽子坑はもっとも南に位置する炭坑で、
幕末から明治にかけて個人事業者による採炭が始まり、
明治から大正期には企業による出炭が本格化して最盛期を迎えた。
時あたかも日清、日露戦争の時代であり、
エネルギー効率が良くて煙の少ない無煙炭として艦船の燃料に使用されたのである。
したがって烏帽子坑も地元では海軍坑と呼ばれたが、操業は長くは続かなかった。
当時の採炭は掘削から搬出、排水までも人力に頼っていたと思われ、
海上に残る坑口に当時の苦労がしのばれる。

魚貫坑は企業による近代採炭が続行され、昭和中期まで操業した。
ほとんど痕跡をとどめない天草の小規模炭坑にあって、
ここだけはいくつかの施設が海岸に残されている。



鹿児島県加計呂麻島   『 大屯神社 』 と諸鈍長浜節

2013-02-12 00:07:12 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣
















平 資盛の墓碑

















大屯神社 ( オオチョン ジンジャ ) の御祭神

•應神天皇(オウジンテンノウ)
•神功皇后(ジングウコウゴウ)
•三位中将小松(平)資盛郷 ( サンミチュウジョウ コマツスケモリキョウ )


大屯神社の創建年代は不詳であるが、
境内には文政十一年建立の平資盛卿の墓碑が現存しており、
鎮座地の 「 諸鈍 」 は、卿が配下の者に 「 ここまでは追っ手も来るまいから
諸公は鈍になれ(安心せよ)」 と言ったからと伝えられ、
平家の落人伝説が色濃く残っている。


旧九月九日に行なわれる諸鈍 ( しょどん ) シバヤ ( 国無形文化財 ) は、
文治元年壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びた平資盛一族は、加計呂麻島の諸鈍に居城を構えたと伝えられ、
その時郷を慰めるたねに始められたという。
「シバヤ」は「芝居」と書き、青紫(椎)の小枝で囲まれた楽屋のことで、
狂言や風流踊りなどの特徴から、四・五百年前に諸鈍が海上交通路の要衛として栄えた頃、
中国や大和、琉球等から伝わったものが一つの村芝居としての祝福芸能となったと思われる。
踊り子は全員男性で、主に「カビデイラ」と呼ばれる手作りの紙の仮面をつけ、
「サンバト(三番叟)」(芝居の前口上)から始まり、
「兼好節」(吉田兼好を歌ったもの)・「鎌踊り」(琉球風の豊作を祝う踊り)・
「スクゥテンガ」(中国の剣舞に似る)・「ククワ節」(平敦盛卿を偲ぶ)・
「ダットドン(座頭殿)」(狂言風寸劇)・「タマツユ(玉露)」(人形劇)・
「スコテングゥ」(琉球風の棒踊り)などの踊りや寸劇を演じる。







諸鈍長浜







諸鈍長浜節の碑




また当地には八月踊り歌の一つ 「 諸鈍長浜節 」 が残っており、
「しょどみながはまや やまとがでとよむ しょどみみわらべや しまじゅとよむ
(諸鈍長浜節は 大和まで名高い 諸鈍の女童は 島中に知れ渡る)」と歌われ、
琉球舞踊の「しゅんどう」の曲目と歌詞が同じで、往昔の繁がりを窺わせる。

諸鈍長浜節は、山あり谷ありの独特なリズムの歌であるが、
奄美の民謡のなかでも特に好きな歌である。
これは個人的な感想であるが、八重山では、童女・娘のことを 「 みやらび 」 といい、
八重山民謡の 「 月ぬ美しゃ 」 の中でも歌われている。
そのことを思えば、行政区分が鹿児島の加計呂麻島だが、
諸鈍まで八重山の文化 ( コトバ ) が入って来ていたと思わざるをえない。




沖縄県多良間島   「 シュガーガー 」

2013-02-12 00:04:13 | 離島めぐり



シュガーガー








男女別の水浴びする泉の入り口







水浴びする泉







シュガーガーの入り口にある説明板




多良間島に上陸して最初に探訪に訪れた場所がシュガーガーである。
なんとなく “ 甘そうな ” 感じのする名前であるが、
島に渡来した古人は、洞穴を探索して飲料水を求め、
その周辺に住み着くようになったのである。
シュガーガーは、自然洞穴の中の湧水で最も古くから使用され、
その周辺に集落が形成されたのである。

昔、ンガーバマから上陸したカズガムもその湧水の恩恵を受けて生活を営み、
鍛冶を行なって農具の製作に努めたのである。
シュガーガーの入り口から左側に約3mの所にウスヌカー(牛に水を飲ませる泉)があり、
右側約29mのところに男女別の水浴びする泉があり、その奥に飲料用の泉がある。
塩分濃度のやや高い水であるが、古くから島人の大事な水資源であった。
それだけに住民の生活に密着している。
そのように祖先の遺した暮らしの歴史を探るよい資料である。