平 資盛の墓碑
大屯神社 ( オオチョン ジンジャ ) の御祭神
•應神天皇(オウジンテンノウ)
•神功皇后(ジングウコウゴウ)
•三位中将小松(平)資盛郷 ( サンミチュウジョウ コマツスケモリキョウ )
大屯神社の創建年代は不詳であるが、
境内には文政十一年建立の平資盛卿の墓碑が現存しており、
鎮座地の 「 諸鈍 」 は、卿が配下の者に 「 ここまでは追っ手も来るまいから
諸公は鈍になれ(安心せよ)」 と言ったからと伝えられ、
平家の落人伝説が色濃く残っている。
旧九月九日に行なわれる諸鈍 ( しょどん ) シバヤ ( 国無形文化財 ) は、
文治元年壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びた平資盛一族は、加計呂麻島の諸鈍に居城を構えたと伝えられ、
その時郷を慰めるたねに始められたという。
「シバヤ」は「芝居」と書き、青紫(椎)の小枝で囲まれた楽屋のことで、
狂言や風流踊りなどの特徴から、四・五百年前に諸鈍が海上交通路の要衛として栄えた頃、
中国や大和、琉球等から伝わったものが一つの村芝居としての祝福芸能となったと思われる。
踊り子は全員男性で、主に「カビデイラ」と呼ばれる手作りの紙の仮面をつけ、
「サンバト(三番叟)」(芝居の前口上)から始まり、
「兼好節」(吉田兼好を歌ったもの)・「鎌踊り」(琉球風の豊作を祝う踊り)・
「スクゥテンガ」(中国の剣舞に似る)・「ククワ節」(平敦盛卿を偲ぶ)・
「ダットドン(座頭殿)」(狂言風寸劇)・「タマツユ(玉露)」(人形劇)・
「スコテングゥ」(琉球風の棒踊り)などの踊りや寸劇を演じる。
諸鈍長浜
諸鈍長浜節の碑
また当地には八月踊り歌の一つ 「 諸鈍長浜節 」 が残っており、
「しょどみながはまや やまとがでとよむ しょどみみわらべや しまじゅとよむ
(諸鈍長浜節は 大和まで名高い 諸鈍の女童は 島中に知れ渡る)」と歌われ、
琉球舞踊の「しゅんどう」の曲目と歌詞が同じで、往昔の繁がりを窺わせる。
諸鈍長浜節は、山あり谷ありの独特なリズムの歌であるが、
奄美の民謡のなかでも特に好きな歌である。
これは個人的な感想であるが、八重山では、童女・娘のことを 「 みやらび 」 といい、
八重山民謡の 「 月ぬ美しゃ 」 の中でも歌われている。
そのことを思えば、行政区分が鹿児島の加計呂麻島だが、
諸鈍まで八重山の文化 ( コトバ ) が入って来ていたと思わざるをえない。