「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県宮古島市  「 建設中の伊良部大橋の間をゆく 」

2013-02-05 05:10:33 | 沖縄の橋



建設中の伊良部大橋をくぐる


























































橋の主要部である鋼床版箱桁のパーツは地元で作られている













宮古島の平良港から多良間島へ行く途中に建設中の伊良部大橋の下をくぐる。

伊良部大橋(いらぶおおはし)は、沖縄県宮古島市の宮古島と伊良部島とを結ぶ予定の橋。
2006年3月18日に起工し、2014年の開通を目指している。
全長3,540mで、完成すれば、2006年に完成した新北九州空港連絡橋を抜き、
通行料金を徴収しない橋としては日本最長となる。

宮古島の平良港トゥリバー地区と伊良部島東南部の長山の浜近辺を結ぶ橋で、
建設中の沖縄県道252号平良下地島空港線の一部となる予定である。

橋梁の構造は、一般部がPC連続箱桁橋、主航路部が鋼床版箱桁橋とされ、
本橋部分の全長は3,540mに及ぶ。
また、取付道路は2,960mで、伊良部島側取付道路の一部は600mの海中道路とされる予定。
本橋部分と取付道路を合計すると、全長は6,500mとなる。

橋梁の幅員は8.5mで、幅3mの片側1車線道路の両側に幅1.25mの路肩が設けられる。
主航路部は、船舶の通航のために、支間長180m、クリアランス27mとされる。

伊良部大橋の建設により、交通の利便性向上を通じて、医療・教育水準の向上、物流の拡大、観光の活性化、
下地島空港の有効利用などの効果が期待されている。

2007、宮古島側では仮桟橋、伊良部島側では仮桟橋と海中道路の工事が行われているところである。
主航路部は鋼中路アーチ橋を計画していたが、風洞実験で耐久性に問題があることが判明。
再検討した結果、2008年に鋼床版箱桁橋に変更。
同部分の実施設計が1年遅れたため、完成が当初計画の2013年3月から2014年3月と1年遅れることとなった。
2012年6月、橋中央部の箱げたを架設するための大型の起重機(フローティング・クレーン)船が、
台風の影響を避けるため、兵庫県の母港に戻っており、
気象条件から宮古島に再度呼び戻すのは2013年4月ごろになる見込みなった。
このため、完成が予定よりもさらに10カ月ほど遅れ、2015年1月ごろになる見通し。




熊本県天草市 「 轟 橋 ( とどろばし ) 」

2013-02-05 05:07:35 | 熊本の石橋



上流側から見た 「 轟 橋 」









轟の名がついた淵になった場所から落水が轟く








下流側から見た轟橋







新しい橋の奥に石組みが見える







自然石の上に築かれたアーチ







轟橋の説明板







橋の近くにある龍神さん







裏には龍王と書かれている









鈴木塚之碑














今井九右衛門代官の碑







鉾立てかけ石













橋の袂にある 「 轟橋の架橋記念碑 」







轟橋と刻まれた石






上から見ると石橋だとは気付き難い












所在地 / 熊本県天草市河浦町今田
架橋  /  大正3年 ( 1914年 )
石工  /  江嵜仁吉
長さ   /  12.50m   幅   /  5.05m
拱矢  /   6.10m   径間  /  9.25m 
単一アーチ ( コンクリートで拡幅 )



轟橋は、芦刈橋と同じように大正3年に今田川に架けられた橋で、
天草郡内に残る数少ない石橋である。
深い谷川に両岸の力強い岩盤を基礎として架かる非常に男性的な橋である。
アーチを描く石橋は原型を残しているものの、
近年の交通量の増加にともない橋面は舗装され、
事故防止のためガードレールが設置されている。

天草下島のほぼ中央にあたるため、
島内の交通や交易の要所として重要な役割を果たしていたことが窺える。


轟公園 撰文 鶴田文史
 
 とどろ鳴る滝のあるこの地は、今村のほぼ中心に存在する自然と歴史の轟公園だ。
天草の乱後の再興に尽力された鈴木重成代官をおまつりした”鈴木塚”や、
今村の山林を村民共同体の区有林として保証してくれた今井九右衛門代官碑などがあり、
轟の滝の淵には雨乞いを神に祈願した弁天竜王鉾様がまつってあった。

 轟の鈴木塚の側にある元禄13年銘の手水鉢は、天草で一番古い手水鉢だ。
今村の庄屋さんは松本家、代々村民のために尽くされたその足跡があちこちにある。
今村の地域は明治・大正期に田中栄蔵氏の旭炭鉱が盛況だった所で、
大正3年に架けられた芦刈橋と轟橋は、人の工による天草有数の石橋文化眼鏡橋である。
この轟公園は、鬱蒼とした自然の中に歴史と人工の遺跡があり、
雨のときの滝は勇壮で自然と歴史と人工が、三位一体に凝縮している所なのだ。
 今村区
 轟公園保存会


沖縄県宮古島  ・  平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 張水御嶽 」

2013-02-05 05:05:38 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



張水御嶽 ( はりみずうたき )








御嶽の中にある拝所































18世紀の中頃まとめられた、『宮古島記事仕次』という宮古島の神話・伝説と昔話をまとめた本によれば、
地上の守護神となることを古意角が天帝に願い出ると、天帝はこれを祝福し、
天の岩戸の先端を折って大海に投げ入れ宮古島を作ったという。
その後、古意角は姑依玉と言う女神を伴い現在御嶽のある地に降臨し多くの神々を産み育て、
そして人々が繁栄を得た。と記されている。

張水御嶽は、通称 「 ツカサヤー 」 とも呼ばれ、
宮古島創世神話ならびに人蛇婚説などに彩られた御嶽である。
『 御嶽由来記 』 によれば、 「 由来 住古、天地が定まらず人類がまだ生まれない以前、
天帝に命じられた、古意角 ( コイツノ ) という神と姑依玉 ( コイタマ ) という女神が、
多くの神々を従え天下った場所だとされる。

人蛇婚説は、平良の住屋の里に富貴栄耀の夫婦がいた。
二人には子どもがいなかったので、神仏に祈願していたところ女の子を授かった。
娘が14・5歳のころ妊娠したので、父母は驚き事の次第を訊ねてみたところ、
「 誰とも知らぬ白く清らげな若者が錦の衣をまとい、夜な夜な忍び入るかと思うと、
ただ茫然と夢心地として、夜を重ねるうちにこのような身になった 」 と語った。

父母は不審に思い、糸の先に針をつけて男の片髪に刺すように言った。
娘は教えられた通りにした。
夜明けにその糸をたぐって行くと張水御嶽の洞の中まで続いていた。
その糸の先には首に針を刺された大蛇がいた。
父母は驚き悲しんだが、その夜の夢にかの若者が現れ、 「 我はこの島創世の古意角の化身である。
島守護の神を立てんために汝に思いを寄せた。必ず三人の子を産む。
その三人の娘が3歳になった時に張水に抱き参るべし 」 と言った。

月日が流れ娘が3歳になり、母は三人の娘を連れて張水に行くと、
御嶽の中から恐ろしい形相をした大蛇が出て来た。
母は驚き逃げようとしたが、娘たちは母の手を振り切って大蛇に飛びつき、
一人は首に乗り、一人は腰に、一人は尾に抱きついて親子の情を現し、御嶽の中に消えて行った。
その後、大蛇は光彩を放って昇天し、三人の娘は島守護の神になった。と伝えられている。