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平敷屋朝敏とその一族の 「 里之子墓 」
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里之子墓は、平敷屋朝敏とその子孫の墓で、朝敏の長男、朝良が建立したという。
朝敏は、1700年首里に生まれた和文学者で、
尚 真王の嫡子・尚 維衡 ( 浦添王子朝満 ) の子孫である。
組踊りの「手水の縁」などの作者として知られるが、
尚敬王の時、三司官、察温(具志頭親方文若)一派を批判した文書を
琉球政務の監督者であった薩摩藩吏、川西平左衛門の館に投書したため、
1734年(亨保19年)6月26日、友寄安乗ら15名とともに安謝港で磔の刑に処された。
この多良間島に墓があるのは、朝敏が捕らえられてから処刑されるまで、
この島に流刑になっていたからという。
多良間島は、宮古島と石垣島のほぼ中間に位置し同島と水納島からなる。
同島は東西約八キロメートルで、南北約六キロメートルのほぼだ円形をなし、
標高三三メートルの最高地が島の北側にあり、南にゆるく傾斜する低平な島である。
多良間村誌によると、平敷屋朝敏が安謝港で死刑された事件は、史上有名であるが、
この時、妻と娘は宮城島に流され、
長男の朝良は宮古の水納島に、次男の朝助は多良間島に流刑された。
多良間に流された次男は幼少であったので親戚に養育され、
後に多良間島に流刑された。
その後、水納島から多良間島に移った長男が引き取って共に暮らすようになったが、
朝良は31歳で妻子もないまま死去した。
一方、次男の朝助は、ナカット(嵩原家)の女を嫁にとって一家を立て、
その長男のまからーはマクルヤー(饒平名家)の元祖となった。
次男のじらーはヤマトヤー(平安名家)を立て、長女はウルカヤー(石原家)に嫁いだ。
マクルヤーの分家にはマイッヤー(謝敷屋)、アガリダト(垣花家)がある。
この一門は墓も朝良を葬ったという「里之子墓」を使用している。
この墓には昭和十年に、朝敏夫妻他五人の遺骨も納められた。
遺骨の護送は、沖縄の門中のひとり大宜味氏とマクルヤーの饒平名長建氏によってなされたという。
多良間島と平敷屋では、やや歴史的に違う所もあるが、
その時代に生きた者がいないだけに、どちらの説が正論なのか解らないので、
この経歴は参考までに留めておいてもらいたい。