所在地 : 北九州市戸畑区銀座2-6-27
竣工 : 昭和11年(1936年)
構造 : 鉄筋コンクリート造4階建て
設計施工 : 竹中工務店
洞海湾口には、かつていくつかの島々が存在した。
大きなものでは中世、若松城が築かれた中之島もあったが、
現在は若戸行路の支障を来すとして浚渫され、現存していない。
そんな中に洞海湾の浚渫土によって造られた一文字島という人工島があった。
この島は昭和元年に戸畑側と陸続きになり事業用地として売りに出され、
ここに進出したのが、鮎川義介率いる共同漁業である。
共同漁業は、1911年(明治44年)に下関で設立された田村汽船漁業部を発祥とする。
同社は、トロール漁法を
倉場富三郎(トミー・グラバー、幕末期に活躍したトーマス・グラバーの一子)と前後して移入し、
当時の漁業に革命を起こした。
第一次大戦前後、漁船の軍事目的の転売が盛んになった時期も本業に専念し、
大正後期にはトロール漁をほぼ独占するまでに至った。
漁業の近代化、市場へのアクセスを考えた同社は、戸畑への工場の移設を決断する。
昭和4年に、市場・加工場・従業員宿舎等を合わせたトロール事業の一大基地を築き上げた。
これらの設備は、戦後の遠洋漁業に大きな効果を発揮し、
模範的工場として教科書にも取り上げられるほどになった。
「 共同漁業 」 という社名は、当時の取り締まり役である国司浩助が、
会社とは経営者と従業員とが手を取り合い進めて行くものであるとの思いから命名したもので、
このような理念の元、会社付属の船員養成所が設立されたのは、昭和5年のことである。
ここでは船員のための専門授業に加え、一般教養や修身も教えられていた。
さながら学校に近い教育機関 ( 実際に学校令の許可を受けていた ) であったことから、
従業員を大切に考えた国司浩助の経営姿勢を垣間見ることが出来る。