「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県みやこ町勝山 ・ 「 寺田川古墳 」

2013-12-24 05:00:41 | 古墳・ 遺跡



墳丘には大きな孟宗が林立している







枯れた孟宗竹の間から石室が見える







石室は縦長になった稀な形をしている












古墳やグスクがある場所は、灌木や雑草で覆われている光景が普通であるが、
このように竹の中にある沖永良部島の後蘭孫八城にしても、この寺田川古墳にしても、
ある意味異様な雰囲気を感じるのである。

寺田川古墳は、なかなか探し当てれなかった古墳のひとつで、
県道長尾稗田平島線に近い下黒田の丘陵上にある。
この丘陵上には他に低墳丘の二基の円墳が残存し、
寺田川古墳とは数十メートルの距離を持つ。
おそらく累代の墓域を形成するものであろう。
かつてはいま一基が存在したという。


昭和39年 ( 1964年 ) に石人石馬研究会によって
一部発掘調査を伴う石室実測作業がなされ、
玄室左袖に頭骨片・鉇・その脇に円筒埴輪片二点、
玄室奥壁左隅で土師器片一点が出土したというが、
出土品の所在・詳細は不明である。

古墳は現在竹林となっていて、墳丘の変形も進んでいる。
現状で全長19mの規模を持ち、周囲はまったく見えない。
石室が開口する西側は一段と低くなっており、
南側の墳裾となる標高25.25ラインを追うと後円部径は約12mとなる。

主体部奥壁が現状の後円部の中心付近に位置することから、
本来の規模と見てよいであろう。
周溝、墓石、埴輪は見当たらない。

主体部は単室の横穴式石室である。
現状では前面が大きく崩落し、天井石は最後部の一枚が残存するだけで、
入り口部は厚く埋まっている。
図化を試みたが、石室内部は40センチ以上の土砂が堆積し、
特に入り口付近は袖石もすべて隠れていて、細部は不明のままである。
現状の床面規模を見ると、長さ2.2m、幅は奥壁で2.2m、
前端付近で約1.5m、高さは約2mが確認できるが、本来は2.4m測ったという。

石材は最下段に比較的大型の腰石を用いるほかは、
厚さ20センチ内外の小型の石材を積み上げ、目地に小石を多用している。
袖石の前面の積み石が少なく、前庭部は未発達のようである。
平面規模に比して高さが非常に高い石室で、
石材から見ても6世紀初頭前後に比定できよう。




それぞれの海 「 北九州市 ・ 洞海湾 」

2013-12-24 04:59:41 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々



洞海湾を行き来する船を出迎えるように架かる 「 若戸大橋 」








洞海湾をゆく船









 「つくしなる 大渡川 大方は 我一人のみ 渡る浮世か 」 ( 古今六帖 )

 と紀貫之 ( きのつらゆき ) の古歌がある。

この歌からもうかがえるように洞海湾 ( 一名洞の海 ) は、
その昔、川状をなしていて江川によって遠賀川河口に通じていた。
かつて若松は離島だったわけで、戸畑、八幡との交通はすべて船で行われていた。
外海である玄海・響の両灘は風波がひどいため、神攻皇后も洞海湾を通航され、
豊臣秀吉の軍船もここを通って芦屋に出ている。

かつての洞海湾は東西20km、南北が2kmという非常に細長い湾で、
水深は浅いところで1.5mしかなく、干潮時には出船、入船が困難であった。
もともと、地方の一村落でしかなかった若松村が水運の拠点として大きな役割を担うのは、
遠賀川の上流一帯で産出される石炭の積出港になってからである。

遠賀川上流の石炭は、戦国期の文明10年 ( 1478年 ) には、
すでにかがり火の燃料として使用された記録があるが、
江戸に入ってからは産業としてその重要性が増し、
江戸末期の文政13年 ( 1830年 ) には、洞海湾に藩の焚石 ( もえいし )
会所 ( 石炭監督役場 ) が置かれるなど、その採掘販売は藩の統制下に置かれている。 
この間の宝暦13年 ( 1763年 ) には、約140年間にわたる大工事で開通した堀川運河によって
遠賀川と結ばれることにより洞海湾の重要性はますます大きくなった。

明治維新後、石炭は暖房用燃料、さらには製鉄原料として、より一層需要を増すようになった。
藩による統制が終わり、民間の鉱山開発が許可されたのに続き明治5年には
石炭は自由販売となり、若松の地には、石炭関連の業者が次々と設立され、
明治8年には石炭問屋組合が生まれた。
当時の石炭は 「 ひらた船 」 によって運ばれており、最終積出港は若松であった。
明治5年頃までは150隻程度であったひらた船は、
最盛期の明治20年代前半には7,000隻以上に及んだとされている。

一方、明治10年の西南戦争を経て、明治21年に三池鉱山などが三井に払い下げられた結果、
三菱、住友、古河などの巨大財閥が進出し、
これに貝島、麻生、安川といった地元資産が加わり、筑豊炭田の開発は急速に進む。
その生産量は明治18年に年間23.6万トンで日本の石炭生産の18%であったものに対し、
明治28年には213.6万トンで同45%と急増した。

このため、輸送設備の整備が急務となり、
明治22年に設立された若松築港株式会社 ( 現 若築建設株式会社 本社・東京 ) 等により、
洞海湾の浚渫、航路の拡幅などが行われ、
石炭の積出港として港内に帆柱の林立が見られる時代となった。

汽船として初めて入港したのは三菱商事の鋼船 「 江の浦丸 」 ( 800トン ) で、
その姿は洞海湾内の面目を一新したと記されている。
若松は帆船回漕問屋、汽船会社の支店、出張所が次々と設立され、
洞海湾は商工業港として海上交通も頻繁となっていった。

戦後の石炭景気の最盛期 ( 昭和30年代前半 ) には、洞海湾の入出港船は、
1日平均2,100隻もあったが、現在では機帆船が小型鋼船に変わった関係もあるが、
最盛期の半分以下となっている。

洞海湾の湾口、若松、戸畑間に河と島(『かば島』『と』は白の横に斗)(一名 中ノ島)があり、
藩政時代は、黒田藩三宅若狭家義の小城が築かれていたが城は後に壊された。
この島は幕末当時、台場があり、明治大正期には造船所数件と貯炭場などがあったが、
昭和14年10月当時の内務省が切り取り工事を開始、昭和15年12月に完了し、
今はその姿をとどめていない。
※ ( 北九州風土記による )

また、奥洞海湾入口 ( 八幡製鉄所の西側 ) に葛島があり葦が生い茂っていたが、
埋め立てられ八幡製鉄所と陸続きになり植樹され緑の小山になっている。




熊本県山都町 「 男成橋 」

2013-12-24 04:58:41 | 熊本の石橋





















所在地 /  熊本県上益城郡山都町男成
架橋 / 大正4年 ( 1915年 )
石工 / 不明
長さ / 6.0m
幅  / 4.3m  高さ / 4.5m


男成橋は、男成の小川に架けられた目鑑橋である。
大正元年の大洪水で流失したため、
現在の橋が大正4年に新しく架設されたものである。

男成橋へのアクセス
男成橋へは、御船インターより国道445号線をから
218号線を経由し山都町(旧・矢部町)の男成地区に位置する。
国道の位置口に案内板が設置されている。
駐車は、橋の手前の路肩に駐車した。