寛政9 ( 1797 ) 年以降、
大村藩 ( 現長崎市外海地方の神ノ浦、牧野、三重田 ) から
迫害を避けて逃れてきた潜伏キリシタン達は、
貝津の西方沖合い4キロの地点に浮かぶ小さな嵯峨島にも住み着きました。
嵯峨島は、男岳・女岳と呼ばれる2つの火山によって形成された周囲12キロの島である。
西側は変化に富むが、三井楽側から見ると、薄い 「 ひょうたん島 」 になっており、
2つの火山の接合部分の低地に人々は集落を作り、漁業を営んでいる。
そんな五島列島の最西端に位置した場所に嵯峨島教会がある。
禁教の高札撤去後、嵯峨島に教会が建てられるまでは、
信徒の家を利用してミサが捧げられていましたが、明治21年小聖堂が建てられました。
地元の古老によると、島の人が 「 み堂 」 と呼んだ跡地は、
今は竹が生い茂り往時をしのぶことはできません。
しかし、その下の海岸の 「 み堂の下 」 という呼び名に
わずかに当時の名残をとどめています。
大正7 ( 1918 ) 年、嵯峨島の信徒達は信徒が多く住む竹原集落に、
木造の現教会を完成させました。
11月10日には祝別・献堂式が行われています。
教会の創建当初は三井楽小教区に所属しましたが、
昭和28 ( 1953 ) 年貝津教会が三井楽小教区から分離・独立したのを機に、
貝津小教区の巡回教会となり現在に至っています。
島の信徒達は大正7 ( 1918 ) 年に建てられた現在の教会を、
度々改修や補修を繰り返しながら大切に維持しています。
高齢化が進む五島にあって比較的若い世代の多い活気のある島で、
先祖からの信仰は子や孫の世代へと受け継がれています。
漁業が盛んなこの島は住民の大半が漁業に従事し、信徒達は船にマリア像を運び入れ、
危険を伴う海の仕事を先祖と同じように祈りに委ねています。
現在嵯峨島教会には、三井楽教会から月に二回司祭が巡回しミサが行われています。
また玉之浦町の井持浦教会ルルドの洞窟に使われている岩石は、
五島の各地から形の良い石が運ばれてできたものですが、
嵯峨島の岩石も多数含まれています。
嵯峨島の外海に面している高さ100メートル以上の断崖の下には、
荒波にもまれ洞窟を形成するのに適した石が多かったことから、
信徒達の労力奉仕により多くの岩石が船で運び出されました。
今から120年以上も前のことです。
所在地 / 長崎県五島市三井楽町嵯峨島郷
教会の保護者 / ロザリオの聖母