「 ブラタモリ 」 で、タモさんと桑子アナが波之上宮から次に向かったのが、
波之上宮の入り口にある久米至聖廟である。
久米至聖廟 ( 久米孔子廟 ) には、5つの建物と、3つの石碑と門がある。
ここではそれぞれの施設について説明したいと思います。
「 久米至聖廟 ( 久米孔子廟 ) 」の大成殿
至聖廟から入ると大成殿に向かって一直線に伸びた通路
「 大成至聖先師孔子 」 と書かれた禅位
大成殿は、至聖廟(孔子廟)の本殿です。万世の師表である孔子のほかに、
その高弟の四配(顔子、曾子、子思子、孟子)が祀られ、年に一度の釋奠がここで行われます。
至聖廟( 門 )
聖廟内から見た至聖廟 ( 門 )
道教の最高神が祀られている 「 天尊廟 」
久米三十六姓の渡来によって伝えられた中国の民衆道教の最高神を祀る天尊廟。
義に生きた関羽は 「 関帝王 」 と称され、水を治める神である 「 龍王 」 と共に祀られている。
沖縄戦で焼失し1975年 ( 昭和50年 ) に同地に復興されました。
航海安全の守護神が祀られている 「 天妃宮 」
天妃宮は、航海安全の守護神である天妃を祀っています。
天妃とは中国沿岸部や東南アジアで船乗りや航海者に信仰されている媽祖(まそ)の称号です。
琉球王朝時代は「上の天妃宮」「下の天妃宮」と 二つありましたが、
廃藩置県以降学校用地に使われ、天妃像は若狭の天尊廟地内に合祀されていました。
それも沖縄戦で失われ、戦後久米至聖廟とともに復興されました。
「 上の天妃宮 」 の石門は天妃小学校内に残っており、文化財の指定を受けています。
天妃宮 ( 手前 ) と天尊廟 ( 奥 )
程順則頌徳碑 ( ていじゅんそくしょうとくひ ) は、
日本人の道徳の基礎となった「六諭衍義」を持ち帰った人格者、程順則の碑である。
1663~1734年 クニンダ(久米村)出身。
程順則名護親方といい、程順則は唐名。
三司官座敷 ( 琉球王朝の位階名で三司官に次ぐ位で同待遇 ) を務め、
明倫堂等で子弟教育を行いました。
留学を含めて5度中国(清)へ渡り、4度目に自費で 「 六諭衍義 」 を木版出版し持ち帰り
琉球王国だけでなく、江戸幕府にも献上され、各藩の学校や寺子屋等で大いに活用され、
その徳功は高く評価されている。
※ 程順則については以前ブログに掲載したものがあるので参考にしてもらいたい。
程順則頌徳碑の奥にある蔡温頌徳碑 ( さいおんしょうとくひ ) は、
琉球王朝時代有数の偉人、蔡温の碑である。
1682~1761年 クニンダ(久米村)出身。蔡温具志親方といい、蔡温は唐名。
三司官(琉球王朝の位階名で王に次ぐ国政を司る三人の宰相)を務め、
政治・経済・儒学・哲学に関する18の著書のほか、
科学者・技術者としての業績も高いものを残し、
琉球王朝時代有数の偉人として尊敬され、 その徳功は程順則とともに、高く評価されている。
大成殿の横にある 「 中山孔子廟建立碑 」
久米至聖廟 ( 久米孔子廟 ) は、1676年、久米村に建てられた孔子及び
四配 ( 顔子・曾子・子思子・孟子 ) を祀る廟である。
1671年、金正春城間親方が孔子廟建立の件を尚貞王に啓奏して許可を受け、
1672 年に廟地を久米村の泉崎橋頭に選定してただちに着工し、 1674年建物が竣工した。
1675 年5月孔子及び四配の塑像に着手し、1676年1月に完成。
この年から毎年春秋2回、最初の丁の日に釈奠が行われた。
正門には 「 至聖廟 」 の扁額が掲げられ、俗に 「 チーシンブー 」 と呼ばれていた。
第二次世界大戦で大成殿、明倫堂などの建物や聖像、蔵書が灰燼に帰し、
敷地も旧軍道1号線 ( 現国道58号線 ) が貫通して僅かに残るのみで
跡地での廟再建が 不可能となった。
(社)久米崇聖会では、天尊廟敷地内 ( 那覇市若狭 ) に廟地を選定して復興工事に着手し、
1975年 ( 昭和50年 ) 1月に至聖廟落成式と復興後第1回の釋奠を行っている。