





完成した当時は 「 樋田の刳抜 」 ( ひだのくりぬき ) と呼ばれていたが、
江戸時代末期から大正時代にかけて、 「 樋田のトンネル 」 や
「 青の洞門 」 と呼ばれるようになったとされる。
1906年 ( 明治39年 ) の観光案内書 『 耶馬渓案内記 : 天下第一の名勝 』 では、
「 山陰鑿道 ( さんいんさくどう ) 又洞門と呼ぶ 」 と紹介し、
洞門を以降で略語として用いている。
同書で青地区については 「 ( あを ) 又生 ( あをふ ) と云ふ 」
「 頼翁再遊の帰途即臘月十二日含公と共に一宿せし地 、
( 記文 阿保村 ( あほむら ) ) なれども今其宿舎詳ならず 」 と
頼山陽が訪問したときの故事を紹介している。
1913年 ( 大正2年 ) の観光案内書 『 耶馬渓案内記 』 では
伝承を紹介するなかで 「 之より桟道を樋田の刳貫 ( ひだのくりぬき ) と称し
交通頗る便となった 」 と記し、
「 耶馬渓洞門 Aonodo-mon at Yabakei. 」 と書かれたトンネル入り口の写真を紹介している。
1914年 ( 大正3年 ) の 『 山水随縁記 』 には
「 進んて耶馬渓の入口たるの洞門に至れは、
今尚ほ有名なる樋田の隧道を見む。」とある。
「 青の洞門 」 が用いられた他の初期の例としては、
1923年 ( 大正12年 )の『尋常小学国語読本 巻十二 』 や、
1942年 ( 昭和17年 ) の大分県の史跡指定がある。