「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

第6位 みずがめ座 ・ 今日のラッキーポイント 「 連載コラム 」

2016-03-10 06:01:00 | 今日の占い ・ 二十八宿とコトバ

      昨日の春を呼ぶ 「 木の芽起こしの雨 」 で、
      仕事が休みになったので、
      健康診断に行って来た。
      その帰りにホワイトデーのお菓子を買った。

      やりたいことが出来た充実した休みになったが
      今日から仕事で気分を新たに仕切り直しだ。
      そんな今日の順位は6位で、
      ラッキーポイントは、
       「 連載コラム 」 である。
      
      悩みが解決しスッキリ!
      素直に謝ることがカギに・・・


長崎県新上五島町 「 カトリック浜串教会 」

2016-03-10 02:41:37 | 教会





























浜串の信徒は、徳川幕府による迫害が酷しかった文化12年(1815)頃、
外海 の樫山地区から禁教の嵐の中で安住の 地を求め、
五島灘を小舟で乗り切り、 当地に隠れ住んだ。
 
明治12年(1879)パリ外国宣教会マル マン師の努力によって、
キリシタンか ら復帰した移住者の子孫ペトロ竹内平 吉氏等によって、
教会建立が計画され、鯨捕獲の利益金をもって
明治32年 (1899)11月17日、ヒュウゼ師のとき、初代の教会を建立、献堂した。
その後 老朽甚だしく、昭和42年(1967)7月松本師のとき、
敷地を海岸に求めて新聖堂 を建立し、献堂した。

浜串は99%の信者集落で、
産業は昭徳 ・ 昭生の両水産会社による大型巻き網に依存している。
地区民の殆どが乗組員と して1カ月沖に出て操業、
月夜問 ( 満月の頃 ) の教会は、帰港した男達によって賑わう。
浜串港口には希望の聖 母像が航海の安全を祈りつつ、出船・ 入船を見守っている。


所在地  / 長崎県新上五島町岩瀬浦郷724

教会の保護者  / 聖マリア・マグダレナ



調教師・橋口弘次郎の基盤となった馬 「 ハクサンホマレ 」

2016-03-10 01:41:39 | 競馬・ボート



小倉大賞典の 「 ハクサンホマレ 」







久保一秋を背にゲート前に来た 「 ハクサンホマレ 」





橋口弘次郎は、1945年、宮崎県北諸県郡三股町に生まれる。
実家はサラブレッドやアラブの生産・育成を手がけており、
橋口も小学校中学年の時分から競馬会の広報誌、
『 優駿 』 を小遣いで購読するなどしていた。

一方で家族からは競馬社会に入ることを望まれず、
都城泉ヶ丘高校を経て九州産業大学商学部へ進んだ。
しかし大学在学中に中央競馬の小倉競馬場へはじめて赴いた際、
見知った地方競馬とは全く異なる、
整然とした美しい競馬場の様子に感銘を受けて騎手を志す。
当初は大学中退も考えたが、
両親から高額な私学の学費を出してもらったという義理から、
大学には卒業まで籍を置いた。

地方騎手から中央競馬へ
当時23歳で中央競馬の騎手養成所には入れなかったことから、
公営・佐賀競馬場で騎手見習いとなる。
1年の下積みを経て騎手としてデビューしたが、
減量に苦しんだうえ、調教で怪我も負い、1年ほどで騎手を断念。
1971年3月より兄が厩務員を務めていた中央競馬へ移り、吉永猛厩舎の一員となった。
なお、騎手としての腕は 「 いちばん下手 」 で、
「 左手でステッキも持てないぐらい 」 だったというが、
「 16くらい 」 の勝利も挙げたという。

吉永厩舎に移り半年後には調教助手資格を取得。
厩務員兼調教助手として、金杯 ( 西 ) の優勝馬ハクサンホマレを担当している。
ハクサンホマレは重賞戦線で堅実に入着を続けつつ6 ( 旧齢7 ) 歳まで走り、
後に橋口は調教師になるに当たり 「 ああいう頑丈な馬を育てたい 」 と考えたという。